ホ陵、顯武里、大夫、司馬〔遷〕年二十八。〔元封〕三年六月乙卯。除[#二]六百石[#一]也。
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とあるべきことは、司馬貞がこの文句を、『史記』の太史公自序の司馬遷が太史令となつた元封三年の條下に註記した事實に據つても、容易に推斷出來る。この記事の内容を解釋すると、太史令の爵は下大夫で、秩は六百石である。茂陵は武帝の壽陵で、陵下に人家を移して縣邑を立てるは、漢時代の慣例である。司馬遷も武帝の太史令であつた縁故から、茂陵に移住したものと見える。元封三年の六月乙卯は正しく六月二日に當る(『三正綜覽』參看)。
形式の方から觀ると、漢時代の告身や履歴には、皆その人の縣里〔官〕爵年齡を具記するのが慣例である。例へば『史記』の扁鵲倉公列傳に、臨※[#「くさかんむり/(輜−車)」、第3水準1−91−1]、元里、公乘、陽慶、慶年七十餘と記し、安陵、阪里、公乘、項處と記せるが如き、『説文解字』の許沖の上書に、召陵、萬歳里、公乘、草莽臣、〔許〕沖と署せるが如きそれである。近年敦煌から出土した漢時代の木簡に據つても、幾多の例證を擧げることが出來る。「戍卒穎川郡、陽※[#「羽/隹」、第3
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