ゥ□殺之年卅八」とあるを引き、「新望興盛里公乘□殺之年※[#「卅」で縦棒が四本、243−9]八」と誤記せる實例と同樣に、張守節も卅を※[#「卅」で縦棒が四本、243−10]と誤記したものとでも解釋しなければならぬ。或は三を※[#「二/二」、243−11](四)と誤つたものとするか、兔に角四十二歳を三十二歳と改めねば、張守節の所傳と自説とを調和せしめ難い。茲に私の新説の一弱點がある。
 具體的に司馬遷の年を傳へて居る資料は、『史記索隱』と『史記正義』とのみである。『史記索隱』は『博物志』に據つて、元封三年(西暦前一〇八)に於ける司馬遷の年を二十八と註し、『史記正義』は太初元年(西暦前一〇四)に於ける司馬遷の年を四十二歳と註して居る。雙方の所傳の間に、十歳の乖違があつて、その儘では到底一致せしむることが出來ぬ。そこで私は『史記索隱』の所傳を根據とし、王國維は『史記正義』の所傳を根據とする。王國維説と自説との相違は主として茲に胚胎するのである。

         七

『史記索隱』に傳ふる所の西晉の張華の『博物志』の文句には、若干の脱落があるが、正しくは、
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太史令、
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