Jに關する事蹟を紹介するのは、寧ろ適當なる題目かと思ふ。

         二

 司馬遷の生年は、『史記』にも『漢書』にも明記されて居らぬ。『漢書』は兔に角、『史記』の太史公自序に、自身の生年を缺くが如きは、實に一の不可思議である。それで司馬遷の生年は、遂に確知することが出來ぬ。清の呉榮光の『名人年譜』にも、民國の張惟驤の『疑年録彙編』にも、すべて司馬遷の生年を登録してない。司馬遷の生年に關する學術的研究は、民國の王國維を最初とする。王國維が民國五年(西暦一九一六)に發表した「太史公繋年考略」(『廣倉學窘叢書』第一集所收)や、民國十二年(西暦一九二三)に、それと内容は同じく題目を異にして發表した「太史公行年考」(『觀堂集林』卷十一所收)に、委細に司馬遷の生年を考證して居る。王國維の所説に反對して、民國の張惟驤が、昨民國十七年(西暦一九二八)に、『太史公疑年考』を公刊して、別に司馬遷の生年を考證して居る。
 王國維の所説は、唐の張守節の『史記正義』に、太史公自序の太初元年(西暦前一〇四)の條下に、案遷年四十二歳と註せるを根據として、太初元年より四十一年前に溯つた、景帝の中元五年(西暦前一四五)を司馬遷の生年と認むるのである。同時に唐の司馬貞の『史記索隱』に、西晉の張華の『博物志』を引いて、太史公自序の元封三年(西暦前一〇八)に、司馬遷が太史令となつた時の註に、
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博物志、太史令、茂陵、顯武里、大夫、司馬〔遷〕――同治九年に金陵書局で刊行した『史記集解索隱正義合刻本』には、司馬遷年二十八と明記してある――年二十八。三年六月乙卯。除[#二]六百石[#一]也。
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とある二十八は、三十八の誤で、元封三年より三十七年前に溯つた景帝の中元五年(西暦前一四五)を、司馬遷の生年と認むるのである。
 張惟驤の主張の核心は、『史記』の太史公自序の本文より推測して、元封元年(西暦前一一〇)に父司馬談の卒去せし時に、司馬遷は年方に二十歳なりと斷定して、元封元年より逆算して十九年前の武帝の元光六年(西暦前一二九)を、司馬遷の生年と認めるのである。同時に彼はまた『史記索隱』に引く所の『博物志』の「年二十八。三年六月乙卯」といふ文句を、太初三年(西暦前一〇二)のことに擬定し、太初三年より二十七年前に溯つて元光六年(西暦前一二九)を司馬遷の生年と認む
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