元時代の蒙古人
桑原隲藏

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)成吉思汗《ジンギスカン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無論|纓《ひも》が付けてあつて、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]
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 今日は元時代の蒙古人の話を申すのですが、諸君の中の多數は此學校で既に幾分東洋史も習つて居るだらうし、又中學校あたりで東洋史も習つたであらうから、元時代の蒙古人の話は大概知つて居るだらうと思ひます。東洋史の中で一番面白いのは蒙古時代であつて、彼等の活動した舞臺が非常に廣いといふことと、又それが後世に及ぼした影響もなかなか廣い。例へて云へばアメリカ發見即ち新大陸發見も決して偶然に起つたことではない。無論イタリーのコロンブスが發見したのであるが、彼をしてさういふ新大陸を發見せしむるに至つた最も有力なる原因は蒙古が起つたことと非常に關係して居る。蒙古が起つた爲に支那といふ國が西洋の方へ知られ、その支那及び印度へ行く目的でコロンブスが西の方から出て遂にアメリカの方へ到着したのであります。
 唯に東洋史上に於ての興味ある時代であるのみならず、恐らく世界史の中でも蒙古時代ほど面白い時代はなからうと思ふ(拍手)。盛に四方を征伐して大いなる舞臺に活動したことはギリシアのアレキサンダーもあるし、ローマのシーザーもあるし、それから以後にも種々の英雄豪傑が澤山出て居りますけれども、其等の人々の事業は蒙古人の其に比べては殆ど太陽の前の星のやうなもので、到底比較にならぬのである。併しながら私は今日斯では蒙古人が、どんな大きな事業を立てたか、どんな戰爭をしたかといふことは言はない。それは普通の東洋史を習ふ時にも大抵聽き居ることと思ふ。例へば成吉思汗《ジンギスカン》が西域を征伐したとか、速不台《スブタイ》、哲別《チエベ》らがロシアの方を征伐したとか、或はそれから十年餘り經つてから成吉思汗の孫に當る拔都《バツ》がロシアからハンガリー、ドイツ或はイタリーまで侵入して行つた話とか、或は又それから殆ど二十年ばかり經つて成吉思汗の同じく孫に當る旭烈兀《フラグ》といふものがペルシアからシリア征伐に出掛たなどといふこともあるですけれども、それは以前ならば兔も角も今日では多少人も知つて居るし、夫等の大體の話は他に聽き得る便宜も多からうと思ひますから、私はそれよりもう一つ進んで其時分の蒙古人は如何なる状態であつたか、如何なる生活をして居つたか、如何なる家に住んで居つたか、如何なる食物を食つて居つたかといふことを申して見たいと思ふ。
 其事は今まで殆ど誰も餘り注意して居らない問題である。その内には吾々が今日から見ると隨分奇妙なこともあるのです。此樣なる話は聽いて居つては或は蒙古の戰爭の話よりも面白くないかも知れぬが、實際其方が有益なことで、蒙古人が大いなる事業をしたといふ所の根底も其間に横たはつて居るのである。所が前にも申す通り此問題といふものは今迄誰もさう調べたことのない問題でありますから、吾輩が此處で話をしようと思うて實は三日程前から一寸調べて見たけれども、いろいろな用事もあるし、なかなかどうもそのはや旨く往かない(笑聲起る)。それで今日はまあ其時間が來たからして、仕方なしに出て來たものの、自分の希望を云へばもう二三日延ばすともう少し面白く、もう少し完全に諸君の前にその話をすることが出來ると思ひますが、唯今となりては致し方もありません(笑聲起る)。
 さて元時代の蒙古人が如何なる有樣であつたかといふことを調べるのには支那の書物は殆ど參考するに足らぬ。全く間に合はないとは申さぬけれども、それは丁度砂を披きて金を拾ふと同じことで、偶には砂金などというて見付からぬことはないかも知れぬけれども、それは惡くすると殆ど徒勞に屬するのであります。それでは元時代に於ける蒙古人の風俗を知るのに何が一番の材料であるかといふと、それは當時のヨーロッパ人の旅行記を讀むのであります。
 元時代には蒙古人は東の方は朝鮮から、西の方はロシア、ハンガリーの邊りまでも皆領地にして置いて、アジア大陸を横切つてヨーロッパまで領地にして居りましたから、其間には非常に交通が便利になつて居りまして、ヨーロッパの人なども澤山來たのであります。其來た人は幾らもあります。けれども、其中には極めて不注意な者があつて、そんな時代に來ながら何等の記録を遺さない人もあるし、偶々記録を遺した所が左程參考にもならない記録があるけれども、其中には立派な人があつて、吾々に取つて今日歴史上缺くべからざる材料を給するやうな紀行もあるのです。この紀行が第一の材料になるのです。一體人の風俗習慣などといふものは時分の國の人は却て書かない。他國人が書くのです。自分では自國の風俗習慣などには深く注意せぬが、外國人から見ると是は奇妙とか彼は新奇とかその注意を惹きて記録する樣になるのです。其故すべて過去つた國民の風俗といふものは其の國の人の記録に待つよりも却て他國人で其地方を見物に行つた、其人の記録の方が何時も參考になるのであります。他國人は極めて細かい所まで注意して居る。此元時代も其通りである。前に申す通り支那人などの記録に依るよりも、却て其時分蒙古地方へ旅行した外國人の紀行が間に合ふのであります。その中にいろいろ澤山ありまするけれども、先づ Plan Carpin 又は Plano Carpini それからもう一つは William of Rubruk 又は Gulielmus de Rubruquis といふのがあります。それから三番目は Marcopolo 有名な人であります。
 一番さきのプラノ・カルピニといふ人は――私のは兔に角六ケ敷いことを言ひますが、併しながら六ケ敷いだけ覺えて置いたら確に後の爲になる(笑聲起る)。このプラノ・カルピニといふ人は千二百四十五年にヨーロッパを發しまして千二百四十七年にヨーロッパへ歸つて來たのであります。丁度足掛け三年の間不在であつたのです。この人はインノセント四世といふローマ法皇の命令を奉じて蒙古へ使者に行つた。此時は蒙古の王樣は成吉思汗の孫の定宗の時です。其時行きまして、さうして西暦の千二百四十六年七月から十一月まで五ヶ月の間蒙古に滯在して居つて、蒙古を見物した。其見物したことをいろいろ記録してあります。歐洲を立つてから歐洲へ歸るまでは三年ですけれども、實際蒙古地方に滯在して蒙古のことを見聞したのは今申した通り西暦千二百四十六年七月から十一月まで、十一月に蒙古を發足して歐洲へ歸つて來ました。
 其次ぎのウヰリアム・ルブルック、此人はフランスのサンルイと云ふ王樣の命令に依て蒙古の方へ行つたのですが、これは成吉思汗の孫で、定宗の次に立つた憲宗の時に行つたのです。此人は今申す通りヨーロッパを出發したのが千二百五十三年で千二百五十五年にヨーロッパへ歸つて來ましたので、矢張り三年掛つて居りますが、此人の蒙古に居つたのは前のプラノ・カルピニよりも少し長くして千二百五十三年の十二月から翌年即ち千二百五十四年の八月まで、それですから足掛け九ヶ月居りました。九ヶ月の間蒙古の状態を能く視察しました。
 それから一番後のマルコ・ポーロといふ、是は諸君も能く聽いて居るだらうと思ひますが、歐洲を出發したのが千二百七十一年で、歐洲へ歸つて來たのが千二百九十五年であります。二十五年ばかり歐洲を留守に致しました。十七歳の折りに出發しましたから四十二歳位の時分に歸つて來たのです。併しながら此人の蒙古の方に居つたのは此時代悉く皆ではありませぬ。蒙古に居つたのは千二百七十五年から千二百九十二年まで十八年ばかりであつて、此人が一番長かつた。けれども此人は千二百七十一年から九十五年まで、兔も角も自分の家即ちイタリーのベニスですが、其處へ二十五年目に歸つて來る。其時にはまるで蒙古人の風をして毛皮の衣服を着て二十五年目で故郷へ歸つて來ましたが、故郷の者は既に二十五年前にマルコ・ポーロが出たきり歸つて來ないので、彼奴は死んだのだらうて思つて居つた。今時分は佛樣になつて居るだらうと――耶蘇教ですから佛樣はないけれども、皆で其跡始末をして、此人の遺した家は親族で保存して居りましたが、其處へ以てマルコ・ポーロが殆ど見たこともない蒙古人の風をして歸つて來ましたから皆の者は喫驚《びつくり》して彼奴詐僞師に違ひないなど申す。前に十七歳で發つて今年四十餘歳で歸つて來ましたので、隨分窶れ果てて歸つて來ましたから他の人はどうも分らない。もと極めて親密なる朋友であつた人でもどうもマルコ・ポーロとは違ふ、あんな白髮はなかつたなどと云うて(笑聲起る)二十五年前と今日とを一緒にして居る。さういふことで殆どマルコ・ポーロは困つたのです。併しいろいろ事情を述べて、さうして家を親類から返して貰つたといふことです。以上申述べた是等の三人の紀行が蒙古人の風俗などを調べる所の一番好い材料になる。
 其他に未だいろいろありまするが、先づ大體はこの三人の紀行に依て御話をしようと思ふ。けれども前に申した通り實は此等の書物を讀んで、彼方此方同じことを纏めることは隨分な仕事であつて最初私は一日か二日で出來るだらうと思つてやつて見た所がどうしてなかなか一週間も掛らなければ出來ぬことを發見しました、左樣の次第故自然今日は極めて不完全なお話ししか出來ぬと思ふ。
 家屋(住所) 一番先きに家屋の話をしようと思ふ。家屋といふ言葉は宜くないかも知れぬ。或は寧ろ住所といつた方が宜いかも知れぬ。無論蒙古人の住んで居るのは帳幕の中である。それは必ずしも珍しいことでなくして、蒙古人より以前に匈奴とか突厥とか總て支那の北方に居つた所の夷狄は、みな帳幕の中に住んだので蒙古人のみが帳幕に住んだのではないから、さう不思議ではないけれども、併し帳幕はどんな形で、どんな風であるかと云ふことに就きては、匈奴や突厥ではどうもよくは分らない。蒙古人に至つて前の三人の記録に依て、最も明かに分るのであるから、先づ其事を申さうと思ふ。
 帳幕は木を以て圓形に組合はすのであります。樹の枝などを寄せ集めて造るのでありますが、それは圓く造りまして其縁へは皮でずつと壁の代りに卷くです。其皮は大抵いろいろのチョークとか其他のもので白く塗るです。或物は黒く塗るのがあるけれども、白いのが普通である。其屋根は矢張り樹の枝で圓錐形に造るのであります。其上を矢張り皮で被ふのであります。一番の中央の所は穴をあけてある。其處は煙出しと明取《あかりと》りになる。だからして形を描いて見ると斯ういふ風になる(この時圖を描く)。斯ういふ風に圓くして、此處だけが穴があいて居る。さうして此處は即ち前に申す通り明取りと煙出しになつて居る。蒙古人の火を焚くのは此處の中央で、煙は此處を上る。無論家の中で焚くのですが外部は皮で卷きてあるから平素は見えないけれども、今は了解に都合よきやうに見さしたのです(笑聲起る)。それからこの煙出し兼明取りの所はいろいろに色取るのです。此處は或は金を塗る人もあるし、それから黒くする人もあるし、青くする人もある。大抵同じ部族に屬する所のものは彼處の色で區別する。帳幕の色は違はない、此處の色が違ふ。彼處を赤く塗つた人はないけれども――ないこともないでせう、私見て來ないので能く分らないけれども(大笑)、青とか金とか言ふのはあるけれども、赤は餘りないさうです。それから此廣さです。此處から此處の廣さは是れは一樣には無論往かない。身分の高い人は大きい所に居りまして、身分の低い人は小さい處に居ますから一樣には言へないが、併し一番廣いので帳幕の直徑が三十呎です。三十呎四方ですから隨分大きいです。五六間ばかりです。先づ大抵此部屋の長さほどある是れが圓くなつて居りますから無論面積は此部屋よりも隨分廣いです。それからして入口は屹度南向きである。そして其處には皮で幕を垂れて
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