は是れだけと言つて耳を列べる。耳を揃へて返すなどは其處から出たものだらうと思ふ(笑聲起る)。併し果して然るや否やは私は保證する限りでない。蒙古人が南ロシアの南方を征伐した間に斬つた耳の數が二十七萬、それからシレジアといふ其地方では切り取つた耳の數が大きな九個の皮の嚢に一杯になつて這入り切らなんだといふ話があります、終にのぞんでもう一つ殘したことがありますから申しませう。
 蒙古人は戰爭は強いですが、一つ弱いことは水の上で戰ふことです。是れは蒙古人だけではない、總て北狄は水に熟ぬから水戰は弱いです。蒙古人は船はありませぬから水に遇ふと困る。河などを渡るときにはどうしますかと云ふと、前に申しました皮の嚢がある。それは軍用品を入て置くのでありますが、それから中の物を出して皮の嚢を浮べて其上へ乘つて渡る。さうでなければ馬を泳がして馬の尻尾をしつかり掴んで向岸へ渡る。そんな仕末ですから海を控へてどんどん戰ふといふことになると蒙古人は駄目です。蒙古人は陸上でこそ天下敵なしの勇兵ですけれども、海の上と來ては誠に意氣地がない。其點から云へば日本は海陸共に蒙古兵よりは強いかも知れぬ。海上ではたしかに日本の兵の方が強い。一體この水に弱いといふことは蒙古人ばかりではありませぬが、同じ支那でも南船北馬と言ひまして北支那の人はまるで水上の働きは駄目です。揚子江から南になると水になれて船にも乘ります。夫故に支那人でも北方の方から起つた支那人はまるで水には弱い。今日でも支那人の海軍を志願するのは揚子江以南の者が多い。三國志などを見ても分りますが、赤壁の戰で魏の曹操が八十萬の兵を率ゐ、呉の周瑜が三萬を率ゐたとか云ふ大きな戰爭ですが、其當時天下第一の智者と言はれた魏の曹操でももともと北方の人ですから水上となると閉口する。揚子江は廣い所は二マイルもあるといふが、何しろ内地を流れて居る河ですから高が知れて居る。それに魏の曹操の軍勢は船へ乘つても船がぐらつくというて怖がつて、とうとう連艦の計とかいふ支那人相當の考を出し、小さい船の澤山あるやつを、此船も此船も鎖で繋ぎつけました。成程船は小さいけれども、皆鎖で繋いであると、大きな船になりますから、所謂大船に乘つた氣で安心して乘りましたが(笑聲起る)、其處を燒討にされましたから逃げる譯に往かない。そんなことで大敗したのです。支那人でもさうですが、所で蒙古人はもう一つ北の方ですから尚更水に付ては弱い。それで蒙古人自身でも陸なら天下敵なしだが、水は宋の人にでも負けると明言して居る。宋は南方の弱い國です、それにも敵はぬと云つて居ります。所がわが弘安の役は其弱い蒙古人が出て來ましたから、たとひ伊勢の神風がなくとも無論彼等は大敗せなければならぬ譯です。弘安の役に來ました敵軍は十四萬人で、支那の方から來たのが十一萬人、それから高麗の方から來たのが三萬でありますから都合十四萬でありますが、其内蒙古人は今申した通り海戰では弱蟲、從軍して來た支那人は蒙古の下に居ることを好まぬ、高麗などは有難迷惑で居りますから、夫等の者どもは十分力を盡す譯はない。其故勝敗の數は初めから分つて居ります。蒙古人は水戰には非常に弱いのであつて、朝鮮と蒙古と戰爭をしたことがありますけれども其時分朝鮮の王樣が朝鮮半島を一寸離れた其處にも見えるといふ位の江華島へ逃込んだので、蒙古の軍隊が其處を三十年も攻めたが降すことが出來なかつたと云ふ位に蒙古兵は水上は弱いです。隨分話が長くなり私も疲れましたから是だけにして置きます。
[#地から3字上げ](明治三十八年六・七・十月『明治學報』所載)



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年3月4日公開
2004年2月20日修正
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