泉州の開港後四十年許を經ると、宋が南渡して杭州が南宋一代の行在となつた。中世の外國人達が杭州を指して、Khinzai《キンザイ》 又は Khanzai《カンザイ》 と稱するのは、この行在を訛つたものと見える。杭州は南宋時代を通じて支那第一の大都會として尤も繁昌を極めた。かくて杭州に近き泉州は、地の利を占めた上に、南宋時代を通じて、支那政府は國庫の收入を増加せんが爲に、頻りに外蕃の通商を奬勵したから、泉州の貿易は年一年と長足の發展をして、廣州と頡頏して讓らざる位置に立ち、更に南宋末から元時代にかけて、泉州の勢力は遂に廣州をも凌駕するに至つた。當時支那から海外に出掛ける貿易船、海外から支那に入り來る貿易船は皆泉州に輻輳した。元時代に泉州を觀光した Marco Polo や 〔Ibn Batu^ta〕 は、何れも泉州を當時世界無二の大貿易港と稱して居る。
泉州は宋末や元時代のアラブ人、その他の西方外國人に、Zayton《ザイトン》, 〔Zaytu^n〕《ザイツーン》 又は Zeytoun《ゼイツウン》 等と呼ばれた。この稱呼の起源は、五代の半頃に泉州を管領した留從效といふ者が、泉州城を
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