から印度洋を經、マライ半島を廻つて、今日の廣東へ來て、盛んに通商を營んだ。廣東をその當時のアラブ人は、Khanfou (Khanfu) と呼んだ。Khanfou とは廣府の音譯である。今日の廣東は唐時代に、廣州とも廣府とも呼ばれた。『舊唐書』『唐六典』を始め、當時の公私の記録に廣府といふ名稱が疊見して居る。
この廣州の外、嶺南の交州、江南の揚州、福建の泉州にも唐時代からアラブ人が通商を開いて居つた。西暦九世紀の半頃のアラブ地理學者 Ibn《イブン》 〔Khorda^dbeh〕《コルダードベー》 の著書に、支那の貿易港を南から順次に數へて、〔Louki^n〕《ルウキーン》 (al Wakin), Khanfou, Djanfou《ジヤンフウ》, Kantou《カンツウ》 (Kansu) と記載してあるが、この 〔Louki^n〕 は交州、Djanfou は泉州、Kantou は揚州を指したものと思はれる。併し此等諸貿易港の中で、勿論廣州が第一に繁昌を極めた。その有樣は今日でも東西の史料によつて、かなり詳細に知ることが出來る。
アラブ人の支那通商は、その間に多少の盛衰や、一時の斷絶は
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