2]の計畫指圖に由つたものと傳へられて居る。その晩年に蒲壽※[#「宀/成」、第4水準2−8−2]は世間の批判を憚り、泉州府城東南郊外の法石山に隱居して、風月に身を託したといふ。
 その他蒲壽庚の一族としては『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』に據ると、彼の長子に蒲師文と申す者があつて、始終父の股肱として活動したが、人物が暴悍であつた故か、餘り出世をせずに身を終つた樣である。又『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』卷の三十に據ると、元の世祖の末年に、福建行省の參知政事(從二品)となつた蒲師武といふ者がある。その年代及び姓名から推すと、彼は蒲壽庚の子で、蒲師文の弟に相違あるまい。
 宋末元初の周密の『癸辛雜識』を見ると、泉南在住の巨賈に、南蕃人佛蓮と申す者があつて、蒲氏の壻となり、盛んに海外貿易を經營したが、死後嗣子なき爲に、政府がその遺産を沒收したことを記してある。單に蒲氏とあるのみでは、勿論斷言は出來ぬが、或は蒲壽庚の一家であるまいかと想像すべき餘地がないでもない。
『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』の卷二十七に擧ると、元の晉宗の泰定年間(西暦一三二四―一三二七)に、福建等處都轉運鹽使(正三品)といふ官――これは鹽鐵、酒醋等の專賣事業を統べ、兼ねて市舶のことを管理する大官である。――を占めた蒲居仁といふ人がある。或は蒲壽庚の孫にでも當るべき人かと想像される。
 要するに蒲壽庚は元朝に忠勤を抽でて重用されたのみならず、彼の一族は元一代を通じて福建地方に大なる勢力を振つた。同時に隨分世間から嫌忌された樣である。『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』の卷一百五十二に、
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元以[#二]〔蒲〕壽庚有[#一レ]功。官[#二]其諸子若孫[#一]。多至[#二]顯達[#一]。泉人避[#二]其薫炎[#一]者十(?)餘年。元亡廼|已《ヤム》。
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とあるによつて、その大體を察知することが出來る。蒲壽庚が元に登庸されて以來元の滅亡に至るまで約九十年に及ぶ。『※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]書』に泉人避[#二]其薫炎[#一]者十餘年とあるは、恐らく八十餘年の誤脱であらう。
 かくて明の太祖が元に代つて天下を一統すると、漢族の國家再造を標幟とした彼太祖は、その返報に、この元と因縁深き福建
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