とだ。」
「別に当てといって無いの。」
「それじゃ俺がいい処世話してやろうか? 四ツ木へ行かないかえ。君家に病人があるて話だからそれなら俺が話してさえやれば三百円や五百円貸してくれるよ。」
「行ってもいいのだけれど四ツ木って言うと少し遠いからね……。」
「七円位は貰いがあるって話だ。これを入院させてやりゃいいじゃないか。」
料理番はこう言って小指を示した。まことに甘《うま》い話である。併し彼女には此の種の人間がどういうことをするのか、大概もう見当がついていたから「良人と相談の上明日千歳まで返事する」と言って分れた。
またしても職を失った登恵子は今度新聞の案内広告を見て京橋の第一流格のレストランへ出向いて行った。其処は通勤女給というのであるから、彼女にとっては極めて好都合であった。ところが主人は彼女と応対し乍ら繁々様子を見て居ったが、
「で、来て貰うとして貴女はまさか其の儘のなり[#「なり」に傍点]で来るのではないでしょうね?」と言った。彼女は顔を打たれるよりもつらい思いがする。泣き度いほど情なかった。で、黙って俯向《うつむ》いていると再び主人は繰り返した。
「その着物で来るのじゃないでしょう?」
「あたし、暫く働かせて戴いてから拵えようと思って居りますが、今の処はこれ一枚っきり無いのです。」
流石に大きい声では言えなかった。すると主人は、
「それは困ったねえ、なにしろ場所が場所だからそのなりではね……来て欲くも来て貰えませんよ。」と断るのであったが、その声がうらめしくて腹立たしかった。
いろいろ思い回《か》えして見れば、女工や鉱婦や淫売婦達が虐げられている事実など空ふく風に、華やかな電燈の下で音楽と酒と白粉《おしろい》の香に陶酔して、制度の桎梏も、生活苦も知らずに幸福な夢をむさぶっているように見えるウェイトレスの生活も、余りに悲惨な存在である。
傭主は彼女達を言いようも無く不当に圧迫して居る。道徳(新しい道徳でも旧い道徳でも、)上からこれを観る時は工場主以上に搾取して居る。むしろ吸血鬼である。工場は兎に角彼女達に神聖な労働を強いて、その中から幾分の剰余価値をはねようとするのだから人間を働かせるということだけは倫理上正しくてまだ優い点がある。併し乍ら、旅館や飲食店等は婦女子の生命にかえて貴いものを看板に使って剰余価値どころでは無く総ての価値を没収して了うの
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