球立縞帶、黄八丈脚半、紺足袋、白羽二重下帶、白縮緬鉢卷、太刀拵熊毛尻鞘かけ、短刀。金子は一朱銀一分二朱を持つてゐた。大將分のふところにしては。
四
次《つい》で力丸《りきまる》君次|瓦谷《かはらや》にて捕へらる。千種は五百人がゝりで殺したが、力丸は何人がかりで捕へたか。「國の爲捨る命はをしまねど路の葎となるぞ悲しき」「寥々月色斷頭場」の絶命の辭を殘したのを見ると、月下に斬つたものらしい。「筑波山下柿岡五十三ヶ村の百姓共鐵砲槍を持ち染谷村鬼越山へ屯集山上にて毎夜篝をたき罷在山上へ陣取候樣子中々一揆原の振舞とは相見不申專風聞」千種太郎を仕留めたので、意氣衝天の勢で、山上に旗さし物をひるがへしたのだ。が天狗は一人も山にゐなかつた。
八月二十九日よりは捕へらるゝ者、殺さるゝ者、獄死する者、數ふるに暇なく、九月一日には西岡邦之助、昌木晴雄、水野主馬、高橋上總、伊藤益良等小川を逃げて鹿島に行き、黒澤八郎、川又茂七郎、櫻山三郎、熊谷精一郎、林庄七郎、渡邊剛藏等と合した。みな筑波の客將である。
九月三日、棚倉の兵迫り來り、佐倉、宇都宮、麻生、小見川其他幕府直屬の兵續々來り會し、船亦奪はる。六日西岡等四百人は大船戸から田船はんきりに乘りて延方にのがれ出た。この間水路七八町に足らず、泳いでも渡り得る程だつたが、追討軍に聯絡が無かつたので、うま/\と脱出した。
四百人は霞浦を横斷する船が無いので、岸傳へに敵地を踏まねばならず、鼎の輕重はすでに問はれてゐる。六日から七日八日九日と、鹿島行方二郡の農民は殘黨を狩り立つる犬となつて、詰り/\へ槍を入れ鐵砲を打込み、いやしくも生けるは捕へて、下生村石橋の杭打場にて斬殺し、首は悉く野捨にした。
四百人の内、川俣茂七郎等八十人はおくれて鹿島を出たが、海陸すでに道なく、或は水に入りて死し、或は自刄し、運のいゝ者だけが潮來にのがれた。
七日朝五、行方の船子《ふなこ》村へ逃げこんだ十一人は、忠兵衞といふ百姓を脅迫して五丁田から田舟《たぶね》を出させ、霞浦も三又近くのがれた處へ、小笠原某小舟數艘にて追駈け、鐵砲をぶちかけた。十一人はまづ忠兵衛を切殺して後水に入る者九人、甲冑の士二人は舟に殘りてさしちがひて果てた。ほの/″\と明け渡る湖上の悲劇である。映畫にもつて來いの場面ではないか。
八日、あと一足で下野に入らうとする
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