てと唾をひつかけてやりたく思つたこともある。或女流作家が私はたとへ無名で終つても美人であつた方が嬉しいと思つたであらうといつたのは女でなければ分らぬ心理だ。桃水がああした愚作を殘した男だからとて、一葉を輕蔑するにはあたらない。

 私の方では、野菜の速成栽培に刺戟されて、筍の速成が盛んになつて來た。二月の瓜の珍らしからぬ事は疾く書かれてゐるが「雪中の筍」ももう珍らしくはなくなつた。筍を早く生やすには、竹山へ六七尺の堆肥をするのだが、一寸か二寸位に延びた筍は、三冬すでに地中に横たはつてゐるのだ。
 尤もさうしたのはあまかはばかりで、肉はまだ芽ぐんでもゐぬ。孟宗がお袋にねだられて雪中掘つたといふは、さうした小さなものであつたらう。氷の上で寢て鯉を捕つた王渉の話も、考へて見れば、鯉は寒中が一番うまい。食心棒ならずとも、さうした折に筍がたべたい鯉がくひたい位は言ふ。それを二十四孝に數へた支那人が頓馬なのである。

 お才が越後から來たてに、私の地方で田にし[#「田にし」に傍点]を食ふのを見て、さもさも穢い物をくふかのやうに目を剥いてゐたが、越後あたりでは喰べないのであらうか。外ではどうあらう。上總の片貝へ行つた時、あの邊では目籠をかかへて拾つてゐたから、千葉縣あたりは食ふらしい。
 私の祖父は四十年間の日記を殘したが、其中に越後から稼ぎに來た男、名主丑藏方にて初めて蜆汁をふるまはれ、暫くしてあとを盛つてやらうとしたら、澤山です、もう澤山です、どうも固くてと斷るので、見ると殼ごと喰べたのだと書いてある。丑藏は元は名主だつたが、うちへ來ては農男をしてゐた男だから、祖父を笑はせる爲につくりごとをしたとしか思へぬ。
 蜆をからごど食つたのは作話としても、田にし[#「田にし」に傍点]を喰べぬはなしは嘘では無い。越後は不思議の國だ。雪はもう溶けるであらう。



底本:「雪あかり」書物展望社
   1934(昭和9)年6月27日上梓
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年7月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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