ここで字下げ終わり]
の數行を殘した。
女子文壇は百號以上續いたが、私は中途から詩と日記と或時は散文まで受持つて、怒らしたり冷かしたり隨分罪を作つてゐる。吉屋信子さんの『初陣の記』を評して「七月號でこの君の文を借物ではないかといつた記者への公開状です。遠廻しにイヤミを並べたもので、年はまだ二八に滿たぬとある。河野槇子は十四歳。山田邦子は十八歳で女子文壇に出て來たが、初めより今のやうに書きはしなかつた。筆蹟も稚かつた。あなたが今事實十五歳だとすれば特別席につけ參らすることは何でもない。學籍におはすなら先づ學校の名を承はりませう。自分はあなたの證しを得て、ねんごろにあしらひたいと思ひます。お分りになりましたか」と書いた。が信子さんはまつたく十五歳だつた。筆蹟といひ、構想といひかいなでの少女と見なかつたのが、私の錯誤を來すもとだつた。
底本:「雪あかり」書物展望社
1934(昭和9)年6月27日上梓
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2003年7月21日作成
2003年8月11日修
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