、山はハッキリと水に寫つてるのです。浮藻の蔭を孫太郎虫が泳いで、トンボが飛んで……其時ふくべ[#「ふくべ」に傍点]の半分迄釣つたのだ、あンな大漁は始めてです。
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とはこの川に落つる廣い堀です。小貝川は宛字で蠶飼川といふのがほんとうだそうですが、川の名をきくとすぐ此あたりの農家の生活が目にちらつきます。現にいま言ふた河中の島でも桑摘みが盛んで、蠶時は赤襷の姉さん冠りが優しい僻歌につれて左右に動くのが、遠くから綺麗に見えるといふことです。
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秋蠶はあと三日で上る。今が繁忙のモ中だ。あんのは入つたモナカなら甘いが、この方はさすが甘黨烏水の君もくふまい。僕も常なら桑の係を言ひつかるのだが、今度は順君孝君といふ働きてがゐるから、まづ高見の見物なりと言ふて、奧へばかり引こんでねることも出來ず、勝手の隅で母の役目の見張りだけはせねばならぬ。桑の匂ひは未だしもだが、こくその香りの鼻をつくのは實に降參する。
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これは蠶室の有樣です。養蠶の外に
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稻は俵にはいつて、今田舍は大根ぬきで忙しい、棉もとれた、そちこち棉ぶちのビン/″\の音も聞える。風はつよい、栗の若木にはまだ朽葉がくつついておちぬ。桐の葉のかさ/\鼠のやうに馳けるのがをかしい。
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といふのもよく文字で現はした田園の趣味です。これを讀むと多くの人は君の幸福を羨んで、一日でも代て見たいやうに思はるゝかも知れませんが、君には不斷の苦痛があり、又不斷の煩悶がある。君は生れ乍らの厭世詩人である。
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僕はこの頃ます/\心がめいり込んで、硯に向はぬ事も久しく成るのだ。足の重い事千鈞の石をくゝりつけたやう、氣の塞ぐ事はこれまたさみだれ頃の空と似てゐる。肌にしみこむ夕の風をさけやうともせず、南にあらはるゝ一つの星に眺め入ることが多い。それは桃色の天の光がだん/″\薄うなつて、金光燦らかなる夕の星が庫のむねよりちとはなれて見られるのだ。むかしの人もこんな時こんな星を窓から見たのであらう、おれには天の一方に相思ふ戀人もなく、おもひ出の涙なるべき夕暮もない。おれは地に生れおちて天にかへるまでひとりでゐねばならぬ。遣る方なき寂しさも語りたいに人はない。年若うて死ぬ者はあるけれど、彼はかならずひとりたるべく恐らく覺悟した事はなかつたらう。蕾のうちに萎れ行く花の少女はあるが、彼はやがて來るべきおそろしき死を思うた事は夢にもあるまい。生るゝと同時にすべての幸福は剥ぎとられて、心にも身にも絶えず苦痛を覺えねばならぬやう何で生れたのであらう。星は君にも見える筈だ。(中畧)僕は夢にでも立派な體格になつて見たいと思はぬ晩はないのだ。わが手人よりも強く、わが足人よりも疾く、高きも花は折らう、深くも水は渉らうとやうに……
つまりかツたいの瘡うらみだが、君僕は正直に言ふ、僕若し一兵卒たるを得ば、攻めあぐめる旅順口の要塞にいつその腐れ、奮鬪して死んで見せるよ。
[#ここで字下げ終わり]
斷膓の文はこれに盡きない。
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中秋の夜ひとり沼に行きて浪の上に消え行く夕陽の光を見た、勞れて一歩も移し難き足を木の根に寄せて、月はまだうつらぬ浪の面を見つめてをると、西と北から霧がだん/″\と重なつて來て、水は鏡のやう天も遠く地も遠く、僕そこに美しきわが住居を認めたのである。亡き友のうへ病める人の身など、それよりそれと考へ出して、父母百年の後にくらき或者の影のわが行く路に横はれるを悲しんで、寂たる湖心に家(家舟)を浮べ、ひとりそれに籠らば世に味氣なき事を思ふまじと思つた、一棟の家を建つるべき入りめと一人耕すべき田とはすでに持てり。住まん哉。人來らぬ湖上に」
こゝに人を見る。渠等に夫あり妻あり。かれ等われより暗《オロカ》にしてわれよりしれものなるに、來りてわれを侮りわれを辱しむ。われもとより其心術の陋しきをあはれむばかりの誇りはあれど、長く其眼をのがれてひとり在らんことを希ふ。
今せん無き夢を空にゑがいて徒らに野に朽つべきか。われに猶用うべき力あり。初より許されたる命のかぎり生きんのみ。
やがては君、わが造くるべき水槨の壁に題す詩をあたへた。
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眞個至情の文、讀んで泣かざるは人に非ずと思ひます。
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足は痛い、庫に入つて、本をさがす事も出來なくなつた。弟は一日うちに居るぢやなし、またさう使へるもので無い、まして夜痛い足をなぐツてくれとはたのまれぬ。痛んでねられぬ時、僕はひとり暗い座敷に座つて鷄の啼く時分迄ゐる事がある。布團へねてゐては却て痛むのだ。
[#ここで字下げ終わり]
かやうな意味の文句は書面毎に絶えたことはないが流石に人間最高の趣味を解してをる人だけに、悲んで傷らずといふ覺悟があツて、肚の中でぢツと堪らへてをらるゝのが一層氣の毒でならぬ。しかし又思ひ直して解釋すると事々物々奇ならざるはない。君の煩悶は外部にあらはれた生命に缺陷の多く、到底内部の光焔を盛るに堪へぬ所から、噴火山が爆發すると同じ理屈で、欝屈の餘り怨嗟の聲と成り不平の涙と成るので、君の生涯の純粹は即ち茲に宿て居る。君の生命の價値から見て貴重を極めてをるものは此煩悶で、君は此黄金を自重していよ/\高貴なる金剛石に鍛へ上げなくてはならぬ義務がある。煩悶は凡人の能くする事でない、古への偉人傑士誰か煩悶の子ならざるかである。又病魔とても其通りで、嶮崖急河が深山の威嚴を守るごとく、君を包衷して天眞の妙相を保持し得たものは全く病魔の力である。烈風豪雨が峻嶺の嵯峨を作るごとく、君を鍛錬して詩品の深刻を成さしめたものは終に亦病魔の賜物といはねばならぬ。此の如き矛盾の大調和、此の如き闇黒の大光明をかくも正しく現世目前に見るを得たのは、宇宙萬人の生涯中希有絶少の偉觀として夜雨君のため、又讀者諸賢のため欣喜にたへぬことである。
何時の頃からともなく、前栽に花を植ゑ水を灑ぎ草を採り、自ら「花守」と名乘て出られた。
[#ここから1字下げ]
しかし花は綺麗ですよ。今六つばかり咲いてゐますが、色として無い色はありませぬ。葉※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]頭にもいくつ色があるか數へきれぬ。(ニユーヨルク[#「ニユーヨルク」はママ]のヘンデルソン商會の種子なり)おしろいは黄と紅と、夜顏は藤紫と雪白と、ハルシヤ菊は白色と淡紅色とを八重と一重に、アメリカ白蘚は淡紫色、うらしま菊は八いろの色、千紫萬紅ホンとに君に見せて色の講義をきゝたい位です。
[#ここで字下げ終わり]
又近頃は村の子供を集めて寺小屋を開いてをらるゝといふのです。「花守」と「お師匠」さま、何といふ詩的の生活であらう。夜雨君の如きは頭のギリ/\から足のツマ先まで、全部詩の化身といふてよいでしよう。
八月十八日[#地から10字上げ]伊豆伊東にて
[#地から2字上げ]友人 伊良子清白
夜雨は薄幸の詩人なり、幼ふして身、已に病を懷き、室に筑波の翠微を仰ぎて、而も脚多く戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]の間を出でず、宜なるかな、凄思欝結して詩となるところ、哀音惻々として一に蠶兒の糸を吐いて盡きざる如くなるや。
已にしてまた之を想ふ、人生れて疾を天に享く、素より極めて悲むべし、然れども人生れて才藻の嬖寵を詩神に享くるに至りては、世孰れか之を庶幾し、之を望んで得るものぞ、天地たゞ僅に一の詩人あり、よく足を※[#「足へん+繞のつくり」、152−下−8]て※[#二の字点、1−2−22]以て、此の祝福を保つを得べし、夜雨已に身病ありと雖も、家庭穆々として家に慈なる父母あり、悌なる令弟あり、書窓五頃の庭以て地の花を養つて目を慰むるの資となすに足るなり、これ已に至福、况んや心の花の才華燦爛、心を慰むるの資、しかく深くして、しかく大なるものあるをや、あ※[#二の字点、1−2−22]夜雨、果して生を禀くるの至幸ならずと云はんや、至幸ならずと云はん乎。
[#地から2字上げ]辱知 江東生
[#ここに花園の挿絵あり]
[#改ページ]
夕の光
堤にもえし陽炎《かげろふ》は
草の奈邊《いづこ》に匿《かく》れけむ
緑は空の名と爲りて
雲こそ西に日を藏《つゝ》め
さゝべり淡き富士が根は
百里《ひやくり》の風に隔てられ
麓に靡く秋篠の
中に暮れ行く葦穗山
雨雲覆ふ塔《あらゝぎ》に
懸れる虹の橋ならで
七篠《なゝすぢ》の光、筑波根の
上を環《めぐ》れる夕暮や
雪と輝く薄衣《うすぎぬ》に
痛める胸はおほひしか
朧氣《おぼろげ》ならぬわが墓の
影こそ見たれ野べにして
雲|捲上《まきあぐ》る白龍《はくりう》の
角も割くべき太刀佩きて
鹿鳴《かな》く山べに駒を馳せ
征矢鳴らしゝは夢なるか
われかの際《きは》に辛うじて
魂、骸を離るまで
寂しきものを尾上には
夜は猿《ましら》の騷がしく
水に映らふ月の影
鏡にひらく花の象《かたち》
あこがれてのみ幻の
中に老いたるわが身なり
月無き宵を鴨頭草《つきくさ》の
花の上をも仄《ほの》めかし
秀峰《ほつみね》光《て》らす紅の
光の末の白きかな
縋《すが》りて泣かん妹の
萎《しを》れし花環《はなわ》投げずとも
玉の冠か金光《きんくわう》の
せめては墓に輝かば
殯宮
(本尾秋遊の死を悼む)
東の海に出づる日は
西なる山に沒《かく》るれど
沒《かく》れぬ光《かげ》は天雲《あまぐも》の
五百重《いほへ》の遠《をち》に射渡るを
虚《むな》しき空に紅の
霞流るゝ沙《すな》の上
丘の高きに石を敷いて
築きし墓は荒れにたれ
獵矢《さつや》手挾み鹿《かこ》追ふと
森に落《おと》しけむ久米《くめ》の子が
耳朶《ほたれ》に懸けし金《こがね》の
鐶《たまき》は雨に腐《くた》されて
丹《に》を頬《ほ》に粉《ぬ》りし未通女子《をとめご》の
文《あや》ある袖も黒髮と
殯《あらき》の宮に歛《をさ》めしより
千年《ちとせ》の土となりにけり
櫻が下の曙に
春の旅こそ終りけめ
秋は如何なる風吹きて
露より霜と結ぶらむ
行けども行けども歸らざる
人を送りて野は青く
野は青くして亂れ飛ぶ
花の行方は幻の
〜〜〜〜〜〜〜
森の家なる
(姉の行きたるは十五歳の春なりき)
母が乳房の珠ならで
許されざりし唇は
巖が根纏ふ山百合の
皎《しろ》き花にも觸れずして
二歳《ふたつ》まさりの姉君は
月|圓《まとか》なる春の夜を
栗毛の駒に鞍おきて
森の館《やかた》に嫁ぎけり
鶉《うづら》隱れし叢《くさむら》に
卵探すと掌《たなそこ》を
茨《ばら》にひきさく野人《のゝひと》の
われは雄々しき兒なりしか
寂《さび》しさ知りて麥笛を
霞の丘に鳴らせども
美し人は青麥の
青きを分けてあらはれず
水|涸々《かれ/″\》の石川に
秋は肥たる鮠《はえ》の子を
小笹に貫《ぬ》きてさげかへるも
匂へる眉は戸に見えで
沼にて
蓮の浮葉かきわけて
棹さしめぐる湖や
落る日天の雲染めて
夕の浪は靜なり
筑波も暮れぬ野も暮れぬ
唄も暮れぬる藻刈船
しなへる棹を操りて
行くべき方も暮れにけり
柳垂れたる江のほとり
橋かけ通る裸馬
うち放《はな》らかす鬣の
黒きも水に洗はれて
手綱控ふる若者の
鉢卷白し秋の風
橋と舟との上にして
戀もあれかし耻かしの
〜〜〜〜〜〜〜
落し水
(山内冬彦をいたむ)
夏野の露の朝ぼらけ
靈夢《くしぶるゆめ》はさめにけり
喚《よ》べどかへらぬ隼の
深山の雲に鳴くと見て
宵の燎火《かゞりび》白々と
土橋の爪に消えのこり
蜘手に開く小田の路
野は露ならぬ草も無し
堰に落ち込む落《おと》し水
秋は小川に迫り來て
黒髮《くろかみ》山は朝曇
曇りて北に見ゆれども
花は子《み》となるうす櫻
彌生《やよひ》をかけて夏草の
霧の深きを踏む程《まで》の
命は神のゆるしけむに
何しに人の今日死して
雲の薄きに泣かすらむ
われ
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