長は怒って唇をふくらましていた。そこから十間ほど距《へだた》って、背後に、一人の将校が膝をついて、銃を射撃の姿勢にかまえ兵卒をねらっていた。それはこちらからこそ見えるが、兵卒には見えないだろう。不意打を喰わすのだ。イワンは人の悪いことをやっていると思った。
大隊長が三四歩あとすざって、合図に手をあげた。
将校の銃のさきから、パッと煙が出た。すると、色の浅黒い男は、丸太を倒すようにパタリと雪の上に倒れた。それと同時に、豆をはぜらすような音がイワンの耳にはいって来た。
再び、将校の銃先《つつさき》から、煙が出た。今度は弱々しそうな頬骨の尖《とが》っている、血痰を咯いている男が倒れた。
それまでおとなしく立っていた、物事に敏感な顔つきをしている兵卒が、突然、何か叫びながら、帽子をぬぎ棄てて前の方へ馳せだした。その男もたしか将校と云いあっていた一人だった。
イワンは、恐ろしく、肌が慄《ふる》えるのを感じた。そして、馬の方へ向き直り、鞭をあてて早くその近くから逃げ去ってしまおうとした。馳せだした男が――その男は色が白かった――どうなるか、彼は、それを振りかえって見るに堪えなかった。彼はつづけて馬に鞭をあてた。
どうして、あんなに易々《やすやす》と人間を殺し得るのだろう! どうして、あの男が殺されなければならないのだろう! そんなにまでしてロシア人と戦争をしなければならないのか!
彼は、一方では、色白の男がどうなったか、それが気にかかっていた。――やられたか、どうなったか……。でも殺される場景を目撃するのはたまらなかった。
暫らく馳せて、イワンは、もうどっちにか片がついただろうと思いながら、振りかえった。さきの男は、なお雪の上を馳せていた。雪は深かった。膝頭《ひざがしら》まで脚がずりこんでいた。それを無理やりに、両手であがきながら、足をかわしていた。
その男は、悲鳴をあげ、罵《ののし》った。
イワンは、それ以上見ていられなかった。やりきれないことだ。だが無情に殺してしまうだろう。彼は馬の方へむき直った。と、その時、後方で、豆がはぜるような発射の音がした。しかし、彼は、あとへ振りかえらなかった。それに堪えなかったのだ。
「日本人って奴は、まるで狂犬だ。馬鹿な奴だ!」
八
馭者達は、兵士がおりると、ゆるゆる後方へ引っかえした。皆な商人にだまされたことを腹立てていた。ロシア人を殺させるために、日本人を運んできてやったのだ。そして彼等はロシア人だ!
「人をぺてんにかけやがった! 畜生!」
彼等は、暫らく行くと、急に速力を早めた。そして最大の速力で、銃弾の射程距離外に出てしまった。
そこで、つるすことを禁じられていた鈴をポケットから出して馬につけ、のんきに、快く橇を駆った。
今までポケットで休んでいた鈴は、さわやかに、馬の背でリンリン鳴った。
馬は、鼻から蒸気を吐いた。そして、はてしない雪の曠野を、遠くへ走り去った。
殺し合いをしている兵士の群は、後方の地平線上に、次第に小さく、小さくうごめいていた。そして、ついには蟻のようになり、とうとう眼界から消えてしまった。
九
雪の曠野は、大洋のようにはてしがなかった。
山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし、行っても行っても、その山は同じ大きさで、同じ位置に据《すわ》っていた。少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴《くちばし》の白い烏もとんでいなかった。
そこを、コンパスとスクリューを失った難破船のように、大隊がふらついていた。
兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。近松少佐は思うままにすべての部下を威嚇《いかく》した。兵卒は無い力まで搾って遮二無二《しゃにむに》にロシア人をめがけて突撃した。――ロシア人を殺しに行くか、自分が×××[#岩波文庫版では「殺され」]るか、その二つしか彼等には道はないのだ! けれども、そのため、彼等の疲労は、一層はげしくなったばかりだった。
大隊長は、兵卒を橇にして乗る訳には行かなかった。彼は橇が逃げてしまったのを部下の不注意のせいに帰して、そこらあたりに居る者をどなりつけたり、軍刀で雪を叩いたりした。彼の長靴は雪に取られそうになった。吉原に錆びさせられて腹立てた拍車は、今は、歩く妨げになるばかりだった。
食うものはなくなった。水筒の水は凍《こご》ってしまった。
銃も、靴も、そして身体も重かった。兵士は、雪の上を倒れそうになりながら、あてもなく、ふらふら歩いた。彼等は自分の死を自覚した。恐らく橇を持って助けに来る者はないだろう。
どうして、彼等は雪の上で死ななければならないか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければ
前へ
次へ
全7ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング