て行く。
ところが、おそく、――一時すぎに――帰ってきて、棒切れを折って投げつけるように不機嫌なことがあるのだ。吉原には訳が分らなかった。多分ふられたのだろう。
すると、あくる日も不機嫌なのだ。そして兵卒は、叱《しか》りつけられ、つい、要領が悪いと鞭《むち》うたれるのだ。
彼は考えたものだ。上官にそういう特権があるものか! 彼は真面目に、ペコペコ頭を下げ、靴を磨くことが、阿呆《あほ》らしくなった。
少佐がどうして彼を従卒にしたか、それは、彼がスタイルのいい、好男子であったからであった。そのおかげで彼は打たれたことはなかった。しかし、彼は、なべて男が美しい女を好くように、上官が男前だけで従卒をきめ、何か玩弄物のように扱うのに反感を抱かずにはいられなかった。玩弄物になってたまるもんか!
「豚だって、鶏だってさ、徴発にやられるのは俺達じゃないか、おとすんだって、料理をするんだってさ……。それでうまいところはみんなえらい人にとられてしまうんだ。」彼は繰《くり》かえした。「俺達の役目はいったい何というんだ!」
「おい、そんなこた喋《しゃべ》らずに帰ろうぜ。文句を云うたって仕様がないや。」安部が云った。「もうみんな武装しよるんだ。」
安部は暗い陰欝な顔をしていた。さきに中隊へ帰って準備をしよう。――彼はそうしたい心でいっぱいだった。しかし、ほかの者を放っておいて、一人だけ帰って行くのが悪いような気がして、立去りかねていた。
「また殺し合いか、――いやだね。」
傍で、木村は、小声に相手の浅田にささやいていた。二人は向いあって、腰掛に馬乗《うまのり》に腰かけていた。木村は、軽い元気のない咳をした。
「ロシアの兵隊は戦争する意志がないということだがな。」
浅田が云った。
「そうかね、それは好もしい。」
「しかし、戦争をするのは、兵卒の意志じゃないからな。」
「軍司令官はどこまでも戦争をするつもりなんだろうか。」
「内地からそれを望んできとるというこったよ。」
「いやだな。――わざわざ人を寒いところへよこして殺し合いをさせるなんて!」
木村は、ときどき話をきらして咳をした。痰がのどにたまってきて、それを咯《は》き出さなければ、声が出ないことがあった。
彼は、シベリヤへ来るまで胸が悪くはなかった。肺尖《はいせん》の呼吸音は澄んで、一つの雑音も聞えたことはなかった。それが
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