れたことを腹立てていた。ロシア人を殺させるために、日本人を運んできてやったのだ。そして彼等はロシア人だ!
「人をぺてんにかけやがった! 畜生!」
彼等は、暫らく行くと、急に速力を早めた。そして最大の速力で、銃弾の射程距離外に出てしまった。
そこで、つるすことを禁じられていた鈴をポケットから出して馬につけ、のんきに、快く橇を駆った。
今までポケットで休んでいた鈴は、さわやかに、馬の背でリンリン鳴った。
馬は、鼻から蒸気を吐いた。そして、はてしない雪の曠野を、遠くへ走り去った。
殺し合いをしている兵士の群は、後方の地平線上に、次第に小さく、小さくうごめいていた。そして、ついには蟻のようになり、とうとう眼界から消えてしまった。
九
雪の曠野は、大洋のようにはてしがなかった。
山が雪に包まれて遠くに存在している。しかし、行っても行っても、その山は同じ大きさで、同じ位置に据《すわ》っていた。少しも近くはならないように見えた。人家もなかった。番人小屋もなかった。嘴《くちばし》の白い烏もとんでいなかった。
そこを、コンパスとスクリューを失った難破船のように、大隊がふらついていた。
兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。近松少佐は思うままにすべての部下を威嚇《いかく》した。兵卒は無い力まで搾って遮二無二《しゃにむに》にロシア人をめがけて突撃した。――ロシア人を殺しに行くか、自分が×××[#岩波文庫版では「殺され」]るか、その二つしか彼等には道はないのだ! けれども、そのため、彼等の疲労は、一層はげしくなったばかりだった。
大隊長は、兵卒を橇にして乗る訳には行かなかった。彼は橇が逃げてしまったのを部下の不注意のせいに帰して、そこらあたりに居る者をどなりつけたり、軍刀で雪を叩いたりした。彼の長靴は雪に取られそうになった。吉原に錆びさせられて腹立てた拍車は、今は、歩く妨げになるばかりだった。
食うものはなくなった。水筒の水は凍《こご》ってしまった。
銃も、靴も、そして身体も重かった。兵士は、雪の上を倒れそうになりながら、あてもなく、ふらふら歩いた。彼等は自分の死を自覚した。恐らく橇を持って助けに来る者はないだろう。
どうして、彼等は雪の上で死ななければならないか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければ
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