大してきた。
 橇が、兵士の群がっている方へ近づき、もうあと一町ばかりになった時、急に兵卒が立って、ばらばらに前進しだした。でも、なお、あと、五六人だけは、雪の上に坐ったまま動こうとはしなかった。将校がその五六人に向って何か云っていた。するとそのうちの、色の浅黒い男振りのいい捷《はし》っこそうな一人が立って、激した調子で云いかえした。それは吉原だった。将校が云いこめられているようだった。そして、兵卒の方が将校を殴《なぐ》りつけそうなけはいを示していた。そこには咳をして血を咯いている男も坐っていた。
「どうしたんだ、どうしたんだ?」
 大隊長は、手近をころげそうにして歩いている中尉にきいた。
「兵卒が、自分等が指揮者のように、自分から戦争をやめると云っとるんであります。だいぶほかの者を煽動したらしいんであります。」中尉は防寒帽をかむりなおしながら答えた。「どうもシベリアへ来ると兵タイまでが過激化して困ります。」
「何中隊の兵タイだ。」
「×中隊であります。」
 眼鼻の線の見さかいがつくようになると、大隊長は、それが自分の従卒だった吉原であることをたしかめた。彼は、自分に口返事ばかりして、拍車を錆《さ》びさしたりしたことを思い出して、むっとした。
「不軍紀な! 何て不軍紀な!」
 彼は腹立たしげに怒鳴った。それが、急に調子の変った激しい声だったので、イワンは自分に何か云われたのかと思って、はっとした。
 彼が、大佐の娘に熱中しているのを探り出して、云いふらしたのも吉原だった。
「不軍紀な、何て不軍紀な! 徹底的に犠牲にあげなきゃいかん!」
 そして彼は、イワンに橇を止めさせると、すぐとびおりて、中隊長と云い合っている吉原の方へ雪に長靴をずりこませながら、大またに近づいて行った。
 中隊長は少佐が来たのに感づいて、にわかに威厳を見せ、吉原の頬をなぐりつけた。
 イワンは、橇が軽くなると、誰れにも乗って貰いたくないと思った。彼は手綱を引いて馬を廻し、戦線から後方へ引き下った。彼が一番長いこと将校をのせて、くたびれ儲けをした最後の男だった。兵タイをのせていた橇は、三露里も後方に下って、それからなお向うへ走り去ろうとしていた。
 彼は、疲れない程度に馬を進めながら、暫らくして、兵卒と将校とが云い合っていた方を振りかえった。
 でっぷり太った大隊長が浅黒い男の傍に立っていた。大隊
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