た。「近松少佐! あの左手の山の麓《ふもと》に群がって居るのは何かね。」
「……?」
 大隊長にはだしぬけで何も見えなかった。
「左手の山の麓に群がってるのは敵じゃないかね。」
「は。」
 副官は双眼鏡を出してみた。
「……敵ですよ。大隊長殿。……なんてこった、敵前でぼんやり腹を見せて縦隊行進をするなんて!」絶望せぬばかりに副官が云った。
「中隊を止めて、方向転換をやらせましょうか。」
 しかし、その瞬間、パッと煙が上った。そして程近いところから発射の音がひびいた。
「お――い、お――い」
 患者が看護人を呼ぶように、力のない、救を求めるような、如何《いか》にも上官から呼びかける呼び声らしくない声で、近松少佐は、さきに行っている中隊に叫びかけた。
 中隊の方でも、こちらと殆んど同時に、左手のロシア人に気づいたらしかった。大隊長が前に向って叫びかけた時、兵士達は、橇から雪の上にとびおりていた。

       五

 一時間ばかり戦闘がつづいた。
「日本人って奴は、まるで狂犬みたいだ。――手あたり次第にかみつかなくちゃおかないんだ。」ペーチャが云った。
「まだポンポン打ちよるぞ!」
 ロシア人は、戦争をする意志を失っていた。彼等は銃をさげて、危険のない方へ逃げていた。
 弾丸がシュッ、シュッ! と彼等が行くさきへ執念《しゅうね》くつきまとって流れて来た。
「くたびれた。」
「休戦を申込む方法はないか。」
「そんなことをしてみろ、そのすきに皆殺しになるばかりだ!」
「逃げろ! 逃げろ!」
 フョードル・リープスキーという爺さんは、二人の子供をつれて逃げていた。兄は十二だった。弟は九ツだった。弟は疲れて、防寒靴を雪に喰い取られないばかりに足を引きずっていた。親子は次第におくれた。
「パパ、おなかがすいた。……パン。」
「どうして、こんな小さいのを雪の中へつれて来るんだ。」あとから追いこして行く者がたずねた。
「誰《だ》あれも面倒を見てくれる者がないんだ。」
 リープスキーは、悲しそうに顔を曲げた。
「家内は?」
「五年も前になくなったよ。家内の弟があったんだが、それも去年なくなった。――食うものがないのがいけないんだ!」
 彼は袋の底をさぐって、黒パンを一と切れ息子に出してやった。
 弟は、小さい手袋に這入った自由のきかない手で、それを受取ろうとした。と、その時、リープス
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