雪の曠野をはせていた。鈴は馬の背から取りはずされていた。
 雪は深かった。そして曠野は広くはてしがなかった。
 滑桁《すべりけた》のきしみと、凍った雪を蹴る蹄《ひづめ》の音がそこにひびくばかりであった。それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。
 ペーターの息子、イワン・ペトロウイチが手綱を取っている橇に、大隊長と副官とが乗っていた。鞭が風を切って馬の尻に鳴った。馬は、滑らないように下面に釘が突出している氷上蹄鉄で、凍った雪を蹴って進んだ。
 大隊長は、ポケットに這入っている俸給について胸算用をしていた。――それはつい、昨日受け取ったばかりなのであった。
 イワンは、さきに急行している中隊に追いつくために、手綱をしゃくり、鞭を振りつづけた。橇は雪の上に二筋の平行した滑桁のあとを残しつつ風のように進んだ。イワンのあとに他の二台がつづいていた。それにも将校が乗っている。土地が凹んだところへ行くと、橇はコトンと落ちこんだ。そしてすぐ馬によって平地へ引き上げられた。一つが落ちこむと、あとのも、つづいて、コトンコトンと落ちては引き上げられた。滑桁の金具がキシキシ鳴った。
「ルー、ルルル。……」
 イワンは、うしろの馭者に何か合図をした。
 大隊長は、肥《ふと》り肉《じし》の身体に血液がありあまっている男であった。ハムとべーコンを食って作った血だ。
「ええと、三百円のうち……」彼は、受取ったすぐ、その晩――つまり昨夜、旧ツアー大佐の娘に、毎月内地へ仕送る額と殆《ほとん》ど同じだけやってしまったことを後悔していた。今日戦争に出ると分っていりゃ、やるのではなかった。あれだけあれば、妻と老母と、二人の子供が、一ヵ月ゆうに暮して行けるのだ!――しかし、彼は大佐の娘の美しさと、なまめかしさに、うっとりして、今ポケットに残してある札も、あとから再び取り出して、おおかたやってしまおうとしていたことは思い出さなかった。
「近松少佐!」
 大隊長は胸算用をつづけた。彼にはうしろからの呼声が耳に入らなかった。ほんとに馬鹿なことをしたものだ。もうポケットにはどれだけが程も残っていやしない!
「近松少佐!」
「大隊長殿、中佐殿がおよびです。」
 副官が云った。
 耳のさきで風が鳴っていた。イワン・ペトロウイチは速力をゆるめた。彼の口ひげから眉にまで、白砂糖のような霜がまぶれついてい
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