いていた。
「こいつの亭主は、決して土匪じゃねえんだ!」と、百姓はぐるりへたかってくる人々へ説明した。
「日本人の親方がこれの亭主に云いつけて、土匪のもとへ商売にやらしたんだ。そこを官憲に見つかって、土匪と一緒くたにされちまったんだ。自分のボーイに商売をやらしといて、捕まりゃ、もう日本人は解雇したから知らねえと云い張ってるんだ。悪えのは親方だよ。……親方が悪えんだよ! 日本人が悪えんだ!」
 硬派でも軟派でも、細々と、小心に、ちょっとずつ扱っている人間は、発覚すると、自分自身の血税で、そのつぐないをつけさせられている。ところが、大々的に、何にでも手を出している人間は、取りこむだけのものは取りこんだ。血税は、使っているボーイが払わせられた。支那人のボーイは、主人の外国人の命令で、硬派の商品の運搬中に、逮捕せられ、水にぬらした皮の鞭の拷問や、でたらめな裁判で、死刑となることがどれだけあるか知れなかった。
 幹太郎の一家は、自分で自分の血税を払っている組だ。彼は興奮せずにはいられなかった。若し、捕まった支那人のボーイと、それを使っていた外国人の主人とが、切っても切れない連絡があった確証が上がっても、外国人は、自分の国の領事館で裁判を受けるだけだった。ボーイが断罪となっても、主人は、自国人同志が、同胞愛で、罰金か、拘留か、説諭くらいですんじまう。中国人が、治外法権、領事裁判の撤廃を絶叫するのは、こんなところから原因していた。
 女と百姓を取りまいている群集は、中津に注意された兵士達に依って追っぱらわれてしまった。女は、墓地へかつがれて行く夫の屍体のあとにつづいた。彼女は、三番目の俥に積んできた棺に、夫の屍体をおさめることを頼んだが、地方《ティファン》に容れられなかった。
「さあ、発車だ! 発車だ! おそくなっちゃった。」
 見物にまぎれこんでいた機関手は、その時、ほっと吐息をするように、彼を待っている汽車の方へ馳[#「馳」はママ]け出した。発車時刻は、もう一時間もすぎていた。

     一〇

 領事館と支那官憲の疑問の眼が竹三郎の身辺に光っていた。
 銃を持ち、剣をさげた第七区警察署の巡警は、歩哨のように、アカシヤの並木道の辻に立って、彼の裏門に出入する人間を見張っていた。夜間の、闇にまぎれて、こっそりと麻酔薬を買いに来る人間を見張っているのだ。
 ふと、俊は、それに注意をひかれた。彼女は、よち/\の一郎の手を引いて、石畳の上を隣の馬貫之《マクワンシ》の家から出てきていた。
「あれは、何故、あんなところに立ってるんでしょう?」俊は、巡警の方へ、頸を長くして、馬貫之の細君にたずねた。彼女は、はじめて気がついたのだ。
「あら、猪川さん、まだご存じなかったんですか?」と、纏足の若い細君は答えた。これは、隣同志で、非常に仲よくしていた。細君は、一寸、云いにくげに、舌の根を縺《もつ》らした。「もう、あいつ、五日も前から毎晩立ってるんですよ。あんたの家、用心なさいね。」
「一体、どうするって云うんでしょう?」
「買々《マイ/\》を見張っているのよ。丸子《ワンズ》を買いに来る人を見張っているのよ。」と細君は、弱々しげな吐息をついた。「立っていて、丸子を買いに来させまいとしているのよ。」
 俊は、自分の家の商売を、馬貫之の細君の前に恥じて、頸まで真紅になってしまった。彼女は、一郎を抱き上げて家の中へ走《は》せこんだ。竹三郎は磨いた煙槍《エンチャン》をくわえて、赤毛布の上に横たわり、酒精《アルコール》ランプを眺めながら、恍惚状態に這入ろうとしていた。来訪の諱五路の骨董屋と、母が話相手をしていた。骨董屋は、今朝、戦線へ出動した山東兵が、雨傘を持ったり、石油罐の一方をくり抜いて太い針金を通したバケツをさげていた、と笑っていた。
「あいつ、ぬしとの番人にもならねえんだぞ。」
 俊の報知は、母には恐怖をもたらした。骨董屋には、別の違ったものをもたらした。
「裏からやって来る人間は咎めたって、泥棒にゃ、見て見ん振りをしていら。」
「でも泥棒の方で、ちっとは遠慮するでしょう。」
 母は恐怖を取りつくろった。
「馬鹿云っちゃいけねえ。あんな奴が居たっていなくたって、同じこったくらい泥棒はちゃんと心得ていますよ。経験で。」
 巡警は、人が出入をするのは、暗くて見分けのつかない夜間だと睨んでいた。昼間は立たなかった。ところが、商売は昼間のうちにすんじまった。
 宵から、夜ふけまで夜ッぴて立ちつくして、獲物は一匹もあがらなかった。しかし、獲物があがらないということは巡警の疑念を晴らす足しにはちっともならなかった。
 昼間、竹三郎は、天秤と、乳鉢と乳棒を出して仕事をした。昼間なら安心していられた。第三号に、いろ/\なものをまぜて、丸子を作る。匙を持つ手は、ヘロ中の結果、ニコチン中毒のひどい奴より、もっとひどくブル/\ふるえた。手と同時に、椅子にかけた脚もブル/\ふるえていた。隣家の、観音開きの戸口からは、馬貫之の細君が、歯がすえるヴァイオリンのような歌を唄うのがひびいてきた。
 慄える手に握られた彼の乳棒も、歯をすやすように、がじがじと気味悪く乳鉢の※[#「石+並」、第3水準1−89−8]面《へいめん》にすれていた。
「ヘロが一本三千円、……ヘロが一本三千円……」
 乳棒は、丸い乳鉢の中をがじ/\まわりながら、こう呟いている。竹三郎にはそんな気がした。「ヘロが一本三千円、ヘロが一本三千円……」これは変になった彼の頭の加減だった。
 支那靴の足音がした。俊がさかさまにひっくりかえったような叫声をだした。竹三郎がうしろへ向くと、平服の身体のはばが広い支那人が立っていた。かくす暇も、何もなかった。
「それゃ何だね?」
 支那人の大褂児《タアコアル》の下では、剣ががちりと鳴った。どっか顔に見覚えのある巡警だった。
「それゃ何だね?」
 竹三郎は、すくみ上がるように憐憫を乞う、哀しい眼つきでこの支那人を眺めていた。
「そいつは何だね? どら、こっちへよこせ! すっかり貰って行くんだから。……もっと/\まだまだかくしとるんだろう。出せ! すっかり出しちまえ!」
 竹三郎はヘロ中と恐怖で二重にふるえた。椅子が地べたへ崩折れそうだった。
 そこへ又、もう一人、小柄な大褂児の支那人が、ひょこひょこッと這入って来た。様子で、相棒であることが云わずとも知れた。支那人の大きな手は、かしゃく[#「かしゃく」に傍点]なしに、乳鉢を掴みにきた。
「ちょっと、待って! ちょっと待って!」
 うしろから、わく/\しながら眺めていたお仙は、何を云うともなく支那語をくりかえして隣室へ立った。彼女は、机の引き出しから一円銀貨を掴んできた。
「請悠等一会児《チンニントンイホイル》。」
 そして、彼女はおど/\しながら、二人の大褂児の袖の下へ、その大洋《タアヤン》を入れてやった。俊は蒼白になってしまった父と母を見ていた。巡警は、大褂児へ手をやって、母が入れたものをさぐっていた。
「たったこれっぱちか!……。もう二元よこせい! もう二元!」
 おどかしつける声だった。母は、哀れげな父を見た。昔、村会議員の収賄を摘発しようとした彼の眼が、今は、もう、全く無力な、濁ったものとなってしまっていた。巡警は、二度の要求が満たされると、掴み上げた乳鉢を、またもとへ戻した。そして「シェ、シェ」と帰って行った。
 竹三郎は胸をなでおろした。
 この日から彼は、たび/\、味をしめた巡警等に襲われるようになった。少しずつ買いに来るヘロ※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者からかき集めた金は、右から左へ巡警が持ち去った。
 彼の顔色は、薬のために、ますます失われだした。手足の顫えは一層ひどく、はげしくなった。もう全然※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者となり了ってしまった。一日でも、ヘロインがなければ、彼は、時を過すことが出来なかった。

     一一

 戦争について、不安な風説が、だんだん拡まって来た。
 退却をつづけた張宗昌は、孫伝芳の部隊と協力して蒋介石にあたった。
 どの兵営からも殆んど全部の部隊が戦線へ出はらってしまった。留守の兵営は、僅かな兵士に依って守られていた。
 青黒い兵営から、布団や、床篦子《チャペイズ》や、弾丸が持ち出された。そして、街で、金に換えられた。ホヤのすすけた豆ランプも、卓子《チオズ》も、街へ持ち出された。
 留守をまもる兵士のしわざだ。
 彼等は、捲きあげて水をつる井戸の釣瓶や塀の棒杭や、茶碗や、茶壺を持ち出した。しまいに残ったのは、持って行く訳に行かない兵営の家だけになった。と、彼等は、その家についている、窓硝子や、床板をはずして街をホガホガ持ち歩きだした。そんな姿が、チラホラ見えた。――彼等の、いくさ[#「いくさ」に傍点]の強さはこれで分った。
 竹三郎の家はすゞが帰ると、切り立ての生花をいけたように、清新になった。
「青島には巡洋艦が一隻と、駆逐艦が四隻も碇泊してるのよ。銃をかついだ陸戦隊があがってたわ。ズドンと大砲をぶっぱなしたら、陰気くさい支那人が『デモだ』なんて云ってるのよ。」
 すゞはこんな話をした。
 一郎は、すゞを、親のように、「かあちゃん、かあちゃん。」ともとりかねる言葉でよんだ。
 幹太郎は、今頃、とし子が居たならば! と考えるともなく、なつかしがった。とし子は、※[#「やまいだれ+隠」、第4水準2−81−77]者の親爺や、その親爺を盲目的に尊敬する義母を、むきつけに、くさしていた。支那でなけりゃ、内地へ帰っちゃ、親爺もおふくろも、生存さえ出来ない。廃人だ。とし子に云わすとそうだった。――その両親がよくくさされていたことさえ、彼には、今は、なつかしいものに思いかえされた。
 すゞは、口に出して云いはしなかったが、こんな彼の心持を諒解していた。彼女は、そのために、嫂にもう一度もとへ戻って貰うのではなく、兄をえらく[#「えらく」に傍点]して、「これ見たか!」と、とし子を見かえしてやりたい、そんな気持を抱いていた。彼女が親爺の嫌な仕事を懸命で助けるのも、そんなところからきていた。その心持が、又、幹太郎に分った。彼は、自分は、所謂、えらくなりたい希望など全然持たないことを妹に納得させる必要があると考えた。殊に、ヘロインを売って、無茶な金を取ろうなどとは思ってもいないことを示す必要があると考えた。
 だが、二人の兄妹の気持は、不幸に際してよく起るように、しっくりと一つに合っていた。すゞは二十だった。そして妹の俊は十七だった。俊は、まだ、汚いものが美しく見える、なんでもないことが面白、おかしくってたまらない――そんな年頃だった。二人とも、その体内には、健康で清純な血液の循環を妨げる一つの病菌も、一ツの傷もないように見えた。
 着物の着かたや、髪の結び方や、断片的な方言まじりの話しっ振りの中に、まだ、内地の匂いが多分に匂っていた。それは、ほかの、支那で産れ、支那に於ける日本人の学校で育った娘と比較すればすぐ分かった。
 すゞが帰ると、間もなく、青島で彼女を貰い受けるため骨折った中津が、足繁く出入りするようになった。バクチ打ちで、のんだくれで、味方にしても、こっちの懐におかまいなしに食い荒されて厄介だし、敵にまわせばなお怖い、どんなことをやり出されるか分からない男が中津だ。
 彼は日露戦争でびっこ[#「びっこ」に傍点]になっていた。歩くとき、身体全体がヒョク/\した。目立たない、ジミったれた風彩をしていた。新しいドンスの支那服でも中津が着ると、ホコリにまみれて汚れているように見える。
 何故、こんな男に睨みがきくのか、幹太郎は、一寸解せなかった。彼は、土匪にさらわれた日本人の※[#「女+邦」、209−上−1]票《ホウヒョウ》(金を取るために捕えて行く人質)を取りかえして来たことも一度や二度できかない。敵に対する残忍なやり方では、多くの話種を持っていた。
 幹太郎の二人の妹は、中津が帰ると、チンバ、チンバと、おかしそうに笑いながら、家の中をぴん/\
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