がちゃがちゃ鳴った。
 ただ、三番日の酔っぱらいだけは、全く正気を失っているものの如く、ぐにゃ/\の頭は、洋車の泥よけにコツコツぶつかっていた。
「あの酔っぱらいはどうなるかな。」と幹太郎は思った。「酔っぱらったまゝでぱっさりとやられゃ、本人は却ってらくでいゝかな。」
 兵士は群集を追いのけた。俥夫は梶棒をおろした。
 三番日の囚徒は、ふと、頭をあげた。よだれのように酒がだら/\流れ出る土色の唇が、ぴりぴりッと顫えて引きしまった。そして眼は、人の山を見た。死んだ魚の眼のようだ。
「やりやがれ! 怖かねえぞ! やりやがれ!」
 彼はうつゝのようにむにゃ/\呟いた。言葉は、群集のどよめきに消されてしまった。
 さん/″\駄々をこねて砲台牌をくわえさして貰った真中のデボチンは、三分の一ほど吸った吸いがらを、俥から、傍の保安隊士の頭上に吐きすてた。火のついた吸いがらは、帽子から、辷って襟首に落ちた。
「おやッ、つッ、つッ! つッ!」
 若い保安隊士は、びっくりして、とび上った。
 デボチンは、皮肉げに、意地悪げに、空にうそぶいていた。
「畜生!」
 三人は俥から引きずりおろされた。足枷についた鉄の鎖が、錆びた音色で鳴った。囚徒は動かなかった。
 群集は、けしき[#「けしき」に傍点]ばんでどよめいた。

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ソウ リウユチエ プル
シュエ テイ ユーピンテン
チュンチュ シチュネン
カイン シュエ タ トンチェン
チャン ペイ ハイ ピエン
…………
[#ここで字下げ終わり]

 ふと、幹太郎は、やけッぱちな、蘇武の歌を耳にした。子供でもしょっちゅう歌っている耳なれた軍歌だった。見ると、デボチンの土匪が、唇をひん曲げて口ずさんでいた。
「あいつ、あの眉楼頭《メイロートー》(デボチン)なか/\、図太いやつだな!」
 彼の傍で、一人の若い支那人が、憎々しげに呟いた。
「……まだ、歌ってやがら。そら、まだ歌ってやがら。」
 しかし、幹太郎は、その時、日本人として漢詩を習った時のような感情にとらわれた。瞬間、彼は、ひどく淋しい感情に打たれた。一番最後に歌った意味は、『老母は愛児の帰りを待ちわび、紅粧の新妻淋しく空閨《くうけい》を守る。』というようなものである。
 ――恐らくあのデボチンは、農村に育って、歴山から吹きおろす南風に、その歌を、幼時から歌いなれたものだろう。何等の悪事をもしちゃいないのかもしれない。彼だって、のどかな罪のない幼時はあっただろう!

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チュアン イエン ペイフォン ツイ
イエンジュン ハン コアンフイ
パイ ファニャン ワンアルツイ
ホン ゾアン イ コン ウエイ
[#ここで字下げ終わり]

「畜生! 俺れが人殺しでもしたと云うのか、畜生!」

     九

 支那では土匪が捕まると、市街をひきずりまわして、見せしめに、群集の面前で断罪に処するのが習慣となっている。斬られた頸は三つも四つも並べて路傍の電柱にぶらさげられ、晒《さら》し首にされた。
 その頸はうす気味が悪かった。あるやつは、口をあけて歯くそのついた汚い歯を見せていた。あるやつは、笑いそうだった。しかめッ面をしているのがあった。夏は腐爛した肉に、金蠅がワン/\たかった。
 人々は、一と目で、すぐ顔をそむけ、あとを見ずに通りすぎてしまう。土匪の中には、勿論、強盗を働いたものもあった。殺人をやったものもあった。邦人で無惨に殺された者も二人や三人ではきかない。
 彼等は庄長から金をせびり、若しよこさなければ、土墻をめぐらした村を襲い、妻女を奪い、家を焼き、村民全部を惨殺したりなどもやった。たび/\それをやった。いくら晒し首にしたところで、彼等の悪業のむくいとしてはやり足らぬかもしれなかった。だから、掠奪の被害をなめた群集は、むしろ残忍な殺し方を歓喜した。
「跪下《クイシャ》!」
 洋車からおろされた三人に、馬上の士官が叫んだ。三人は、へたばるように、くた/\と地べたに膝をついた。兵士は、荒々しく囚徒の肩を掴んだ。
「西へ向くんだ、馬鹿! そんな方に向いて仕置きを受けるちゅう法があるか、馬鹿!」
 また鎖が鳴った。三人は一間半ずつの距離に坐り直らされた。
 一人の肥ったせいの高い兵士は、青竜刀を肩からはずして、空間に気合をかけて斬る練習のようなことをやっていた。青竜刀は刃のところだけがぴか/\光っていた。鉈《なた》のようだ。
「包子《ポオツ》を持ってこい! 包子を持ってこい! 包子が食いてえんだ!」
 さきに、砲台牌《ポータイパイ》を要求したデボチンは、足の鎖を鳴らし、縛られた自由のきかない手を、ぱたぱたやって、メリケン粉の皮に豚肉を入れて蒸した包子をほしがった。
「ぜいたくぬかすな!」
「えゝい! 持って来い! 持って来い! 包子を持って来い!」
 彼は、頭を振って叫びつゞけた。
 群集は、銃を持った兵士が制するのもきかず、面白がって、前へ、前へとのり出した。幹太郎は、支那人の、脂肪と大蒜《にんにく》の臭気にもまれながら人々を押し割った。
 うしろへまわした両手を背中で項《うなじ》に引きつるようにされていた囚人は、項からだけ繩をときほぐされた。眼を垂れ、蒼白に凋れこんでいた一人は、ぼう/\と髪がのびた頭をあげた。
「俺れだって、好きや冗談で土匪になったんじゃねえんだぞ………」悲痛な暗い声だった。
 動かせないように囚人の頭と、背を支える二人の地方《ティフォン》がこづきあげた。動かせないのは、斬り易くするためだった。
「包子をよこせい! 包子をよこせい!」
「またあの眉楼頭《メイロートー》(デボチン)は駄々をこねてるよ。」
 幹太郎の傍で、紫の服を着た婦人が囁いた。前髪をたらしていた。すると、そのうしろの前歯のない老人が、
「やれ、やれ、もっとやれ! 困らしてやれい!」とそこら中へ聞えるように、何か明らかな反感をひゞかせて呶鳴った。
 幹太郎は群集にもまれながら、うしろから肩をつつかれた。
 山崎だった。そして、山崎と並んで、も一人、額の禿げた大柄な顔が、一寸彼を見てほゝえみかけた。やはり日本人だった。中津である。
「君、どっかへ行くんかね?」
 取り落して人波に踏みつぶされないように、一心に、ひん握っている幹太郎の手鞄を群集の動揺の間隙に眼ざとく認めて山崎は訊ねた。
 幹太郎はわけを話した。
 中津は、傍で話をきゝながら彼を見て、好意をよせるような、又、あざ笑うような、複雑な微笑をした。これは、この地方の邦人達を慄え上らしているゴロツキの馬賊上りだった。張宗昌の軍事顧問だ。
「ふむ。ふむ。」山崎はうなずいた。「俺れも今、二人で青島へ出むこうとするところだよ。君は、どんな用事だね?……ふむふむ……そいつは、妹さんが税関で引っかゝるなんて、まのぬけたことをやったもんだね。ふむ、ふむ。」
「支配人がやる商売ならどんなに大げさにやらかしたって、一向、見て見ぬ振りをしとくって云うんだが、親爺のようなぴい/\のするこたア、いけねえって云うんですよ。」
「そう、すねなくたっていゝさ。……それで君は妹さんを貰い受けに行こうとしているんだね?」
「そうですよ。」
「俺等が向うへ行ったついでに、早速貰い下げて来てやろうか。」と、山崎は、中津を見た。「俺等が貰うんならわけなしだよ。」山崎の声のひゞきには、それを現わそうとしているところがあった。幹太郎は、それを感じた。こんな時こそ、山崎を利用しなけゃ損だ、と思った。
「どうだ、情報料はなしで、只でやってやるよ。」
 そして、又、山崎は中津を見た。中津は、掴みどころのない微笑を、その鬚だらけの顔に浮べていた。幹太郎は、山崎が、いつかの冗談への応酬をしていると感じながら、殊更、気づかぬ振りをしていた。
 その時、群集の間に、激しい歓喜の動揺が起った。囚徒の頭と背とを支えていた二人の地方《ティフォン》は、頭から腕に、いっぱい熱い鮮血をあびていた。首のない屍体は、ガクッと前につんのめった。吹き出る血潮は、心臓の鼓動の弱るがままに、小きざみになって行った。
「うわあ! うわあ!」頸が落ちると群集はわめきたてた。「うわあ! うわあ!」
 拍手して喜ぶものもあった。これは、日本人には、解《げ》せない感情だ。
 三四分の後、三人は、悄《しょ》げかえっていた奴も、酔っぱらいも、頸が落ちるまで包子を要求してついに与えられなかったデボチンも、同じような姿勢で空骸となって横たわっていた。
 取りまく群集の間からは、纏足の黒い女房がちょか/\と走り出た。二三人も走り出た。男もまじっていた。それからはにや/\笑いながら、皮をむいた饅頭を、長い箸のさきに突きさして持っていた。士官と兵士達が去りかけた頃である。死体に近づくと、彼女達は斬られて縮少した切り口に、あわてて、その皮むきの饅頭を押しあてた。饅頭には餡が這入っていなかった。それは見る/\流出する血を吸い取って、ゆでた伊勢蝦《いせえび》のように紅くなった。
「やってる、やってる。」と山崎は笑った。「いつまでたっても支那人は、迷信のこりかたまりなんだからな。」
 中津はあたりまえだよ、というような顔をした。
「張大人だって、ちょい/\あいつを食ってるんだぞ。」
「第十何夫人連中も喰うかね?」
「勿論、食うさ。あいつが無病息災の薬だちゅうんだから。」
「張大人は野蛮だからよ……さぞ、内地の人間が見たら、おったまげるこったろうな。」
 群集はなお笑ったり、さゞめいたりしていた。彼等は、三人の人間が殺されたと感じてもいないようだった。犬か猫かが殺されたとさえ感じないようだ。幹太郎は、そう感じた。それは毛虫か稲子が頭をちぎられた位にしか感動を受けていない。
 たゞ、囚人をのせてきた俥夫だけは、不吉げに悄れこんでいた。三つの洋車は、ぽそぽそと喇叭《ラッパ》もならさず、人ごみの中を引いて行かれた。俥夫は、強制的に狩り出された。一度罪人を運ぶと、一生涯運気が上がらない。そういう迷信があった。丁度、内地の船頭が土左衛門を舟に積むのを忌み嫌うように。それで悄れきっているのだ。
「こいつに見せちゃいけねえ、見せちゃいけねえ! おい、見せちゃいけねえ!」
 ふと、三台の洋車とすれちがいに、又、三台の洋車が、刑場を目がけて全力で突進して来た。前の俥から、三十がらみの纏足の女がころげるように跳びおりると、無二無三に群集の垣に突き入った。そのあとから、狼狽した百姓が、女に追いすがって引き戻そうと争った。
「こいつに見せちゃいけねえ! こいつに見せちゃいけねえ!」
 百姓は懸命な声を出した。
 女は何かヒステリックに叫んで、大声をあげて泣き喚《わめ》き、群集をかき分けて、屍体の方へ近づこうとするのだった。
 百姓は、五十歳すぎの老人だ。彼は大またに、かまんが[#「かまんが」に傍点]脚をかわしながら、両手をひろげて娘のような女を抱き止めた。と、女はその腕の中へ身を投げた。纏足の脚をばたばたやりながら号泣した。
「寃※[#「口+那」、204−上−19]《ユアンナ》! 寃※[#「口+那」、204−上−19]!」彼女は、百姓の腕に泣きくずれた。「悪い人は主人です! 悪い人は主人です! 主人がうちの人をこんなめにあわしてしまったんです!」
「諦めなさい、諦めなさい! どんなに歎いたって死んだものが生きかえれやせん」
 老人は女をなだめた。「仕様がねえ! 諦めなさい! 諦めなさい!」
 群集は、再び緊張して、その女の周囲に集りだした。彼女は、軍歌を唄い、包子をほしがり、砲台牌をねだったあの男のために悲しんでいた。山崎は、女と見ると、何か仔細ありげに中津に耳打ちをした。幹太郎は、なぜか、彼の直観に結びつくものを感じた。中津は、人々を押し分けて兵士達の方へ急いだ。
「あのデボチンは、支配人に使われとったボーイじゃなかったですかな?」幹太郎は、何気なげに訊ねた。
 山崎は、聞えなかったもののように、そっぽをむいていた。
「むじつです! むじつです! 悪い人は親方です! 親方です!」
 女はやはりすすり泣
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