ニコチン中毒のひどい奴より、もっとひどくブル/\ふるえた。手と同時に、椅子にかけた脚もブル/\ふるえていた。隣家の、観音開きの戸口からは、馬貫之の細君が、歯がすえるヴァイオリンのような歌を唄うのがひびいてきた。
 慄える手に握られた彼の乳棒も、歯をすやすように、がじがじと気味悪く乳鉢の※[#「石+並」、第3水準1−89−8]面《へいめん》にすれていた。
「ヘロが一本三千円、……ヘロが一本三千円……」
 乳棒は、丸い乳鉢の中をがじ/\まわりながら、こう呟いている。竹三郎にはそんな気がした。「ヘロが一本三千円、ヘロが一本三千円……」これは変になった彼の頭の加減だった。
 支那靴の足音がした。俊がさかさまにひっくりかえったような叫声をだした。竹三郎がうしろへ向くと、平服の身体のはばが広い支那人が立っていた。かくす暇も、何もなかった。
「それゃ何だね?」
 支那人の大褂児《タアコアル》の下では、剣ががちりと鳴った。どっか顔に見覚えのある巡警だった。
「それゃ何だね?」
 竹三郎は、すくみ上がるように憐憫を乞う、哀しい眼つきでこの支那人を眺めていた。
「そいつは何だね? どら、こっちへよこせ! 
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