《し》ていた。
 俊は、トシ子が置いて帰った一郎をあやしてたわむれた。一郎は幹太郎の子である。トシ子は、彼と、家を嫌って帰ってしまった妻だ。そして、俊は以前、トシ子と仲がよかった。
 姉の方のすゞは、トシ子が帰ってしまうと、家のことに、心から身を入れて働くようになった。
 原料の補給に内地へ帰らされるのはいつもすゞだった。彼女も、また、危険を冒してもそれをやった。
 やかましい税関をくゞり抜けて、禁制品を持ちこむのは、荒くれた男よりも、女の方が、――殊にまだどこかあどけない娘の方が、はるかにやりよかった。竹三郎は、初めて、幹太郎とすゞと、幹太郎の妻のトシ子を内地からつれて来しなに、もう、早速、一封度ずつ、三人に、肌身につけて上陸するように強いた。
 幹太郎は、その時、親爺の破廉恥《はれんち》さ加減に、暫らく唖然とした。二人の兄弟だけになら、まだ我慢が出来た。ところが、親爺は貰って四月しか経たないトシ子にも、平気の皮で云いつけた。彼は、トシ子と一年半ばかりで別れなければならなくなった原因の一半は親爺にあるような気が、今だにしている。人の気持が分らないのにも程があった。
 だが、第一回は、はずかしがったり、気をもんだりしたすゞと、トシ子が、うまく、やすやすとやりおおせた。親爺と幹太郎は上陸すると、すぐ眼のさきにある、税関のくぐりぬけがかえって面倒だった。女は、すらすらと通ってしまった。
 親爺は、一度味をしめると、それをいいことにして、またすゞを内地へ帰らした。
 すゞは、二回、三回のうちに税関をだまくらかすのを痛快がりだした。
「お前、あの時、どんな気がしたい?」
 露顕した時の恐怖と、親爺への不服が忘れられない幹太郎は、あとから、すゞに訊いた。
「どんな気もしない。ただお父さんが気の毒で可哀そうだっただけ。」
「お前は、腹のまわりに袋に入れたあの粉をまきつけて、――おや、妊娠三カ月にも見えやしなくって? なんて、ひどく気に病んどったじゃないか。」
「それゃ、気になったわ。帯がどうしても、うまく結べないんだもの、――でも、そんなこと、なんでもなかった。ただお父さんが可哀そうだったの、始めて済南へ連れて来る子供とそれから花嫁さんにまでこんなことをさせなけりゃならんかと思ったら、お父さんが可哀そうで、涙がこぼれたわ。」
「なあに、見つからせんかと、びくびくものだったくせに、今になって、ませた口をたたいてやがら。」
「じゃ、兄さん、あの時から、こっちの暮しが、こんな見すぼらしいものだって分ってて?」
「俺ら、なんぼなんだって、こんなにひどいとは思わなかったよ。」
「私、ちゃんと分ってた。……おじいさんがなくなったのに、お母さんもつれずに、たった一人っきり、お父さんが帰っちゃったでしょう、あれで、もうすっかり、すべてが分るじゃないの。」
「へええ、貴様あとからえらそうなことを云ってやがら。」
 妻に子供を残されて、逃げ帰られてしまってから、二人はお互にかたく結びつくようになった。
 第三者にいわすと、幹太郎はもっといい妻がほしくって、トシ子をヘイ履[#「ヘイ履」に傍点]の如く捨て去ったのだった。ところが、一度、妻とした女を、かえすということは、功利的な打算だけで、そんなに、たやすく出来得ることじゃなかった。旧式な彼には、いろいろな迷いや、苦悩や、逡巡があった。それを知っているのは、すゞだけだ。彼は、妹が、しみ入るように好きになった。子供も彼女になついた。すゞは、浅草の鳩のように、人なれがしていた。つかまえようとすると、鳩が、一尺か二尺かの際どいところで、敏感に、とび立って逃げる。そんなかしこさがあった。
 彼女が内地へ帰ったのは、もう、これで七回目だ。

     六

 巷《ちまた》の騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。
 在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。
 彼等は、誰かからそういう心配をするように暗示された。彼等はそのことのために、居留民団で会議を開いた。二人の選ばれたものが、領事館へ陳情に出かけた。小金をためこんでいる者も、すっからかんのその日暮しの連中も、同様に暗示にかかって、そのことにかゝずらった。
 絶えまない軍閥の小ぜり合いと、騒乱の連続は、その暗示をなお力強いものにした。――実際、町ではしょっちゅう騒乱が繰りかえされていた。遊芸園の東隣の女子学校へ、巡邏《じゅんら》の支那兵が昼間|闖入《ちんにゅう》した。
 支那兵は二人だった。二人の支那兵は、女学生
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