の掠奪が市街戦のきっかけとなった。中津の乱暴を見て、附近にうよ/\している青い服が押しよせてきた。家は叩き毀《こわ》された。それをきいたカーキ服が馳せつけた。撃ちあいはすぐ始まった。そして、瞬くひまに全市にひろがってしまった。まるで、用意をして、待ちもうけていたものゝように。
 猛烈な、有名な市街戦が、これから引き起されて行った。

 KS倶楽部の土間は、命からがら、身をもって逃《の》がれて来た人々で埋まっていた。
 避難者は、そのあとから、まだ、まだ押しよせて来た。
 青鼠色の南兵に、出口をふさがれ、壁を破って隣家へ逃げ、支那服を借りて、通りかゝった洋車のあと押しをして、苦力に化けてのがれてきた男があった。妻が南兵に拉《らつ》し去られるのを目撃しつゝ、自分だけ、のがれてきた男があった。毛布、風呂敷包をかゝえて来る者。サル又と襦袢だけの者。父親の背に背負われて、身体の具合が悪いような泣き声で眼が赤い小さい子供。
「まあ、百々《もも》ちゃんはえらいんですよ。私がつれて避難して来る時に、若し、南軍に掴まったら、どうするかってきくとね、おッ母さんと一緒に剃刀《かみそり》でのどをかき切って死ぬるッて云うんですよ。」腹にボテのある呉服屋のお上は、一人だけ得意げに癇高く喋っていた。「本当にえらいでしょう。これこそ日本男児ですわね。」
 彼女は、十歳ばかりの鼻の平たい子供を高く抱き上げて人々に示した。
「まあこれこそ、本当に日本男児ですわね。」
 知っている人間の顔を見ると、この太ッちょの牝鶏は、相手の心配をかまわず、誇らしげに、これを繰りかえした。
 すゞと、俊とは、この土間の片隅に、人々に押されて、小さくなって蹲《うずくま》っていた。一郎を南軍に取られてしまった! 彼女たちは、父親の背でむずかる眼の赤い子供を見て、始めてそれを思い出した。どこで失ってしまったか? はっきりした記憶がなかった。
 ひっかえして探しに行くのは、命がけだった。彼女は、自分の身を守るだけに力いっぱいだった。
 ――また、おおぜいの女達が足袋はだしで、どや/\と飛びこんできた。詠仙里《エイセンリ》の娼婦だった。支那兵が女郎屋街に這入りこんだ。娼婦はすっかりあわてゝしまった。
 裂けたワイシャツに、ズボンだけの男は、アンペラに腰をおろすことも出来ず、弾丸よけに毛布を垂らした窓の傍に突ッ立って、唇をかみしめ、ポケットに、片手を突ッこみ、光った眼で前方を見つめていた。じっとしていられない焦躁が、その身体全体に現れていた。妻と子供を見失ってしまった人だった。
「まあ、小出さん! おききなさい。うちの百々ちゃんはね……」
 また、牝鶏がうるさく繰りかえしだした。

 すゞは、中津らが彼女の家へ押し入ってきた時、俊と一郎と三人で隣の馬貫之《マカンシ》の棕梠《しゅろ》の張った床篦子《チャンペイズ》の下で小さくなっていた。それを覚えている。たしかに三人だった。寝台にも、寝具にも、その附近すべてに、支那人の変な匂いがしみこんでいた。
 家の方では、大勢の荒々しい足音と、罵る叫び声と、破壊の騒音が渦を巻いていた。板をはぎ取るめりめりボキン。戸棚が倒れる轟音、硝子が割れる音、壁がどさる音。
 恐る、恐る、彼女は床篦子の下から這い出て窓に近づいた。そして、眼だけを出して外をのぞいた。石畳の、無気味な小路に、青鼠服の兵士が、いっぱいうごめいていた。
 彼女の手ミシンを小脇にかゝえて、向い側の小路へ消えて行くよごれた男があった。針金の鳥籠が踏みへしゃがれていた。
 よく隣の馬貫之の細君にかくして貰ったものだ。
 誰れか、外から門を叩く音がした。殺しに来た気がした。また床篦子の下へ這いこんで首をすくめた。
 荒々しい足音が近づいた。彼女達は呼吸《いき》をとめて耳を澄ました。
 馬貫之だ。
「あなたがた、ここにいては危いです。早く便所にかくれなさい。」――馬貫之は親切だった。
 便所へ逃げた。
 そこも、見つかり易かった。困った。もひとつ隣の支那人の家が、この便所にくッつこうとする、そこに隙間があった。俊は、夢中に、六尺の塀をよじのぼった。そして、その間にとびおりた。そこはよかった。すゞもあとからつづいてとびおりた。
 五六人の足音が、塀の向側でどやどやと椅子や箱を蹴散らしている。
 便所にも来る様子がした。塀がドシンと蹴られた。耳をすました。話声は支那語だ。中津だろうか南兵だろうか? どっちにしろ見つかれば殺されるか、裸体《はだか》に引きむかれるかだ。
 家と家の隙間は、反対側の小路に通じて開いていた。慌てゝ、白足袋|跣足《はだし》で、逃げて行く人かげが細い間からちらッと見えた。着剣のカーキ服が馳せて来る。何も考えるひまはなかった。その小路へとび出した。
 そして、人が走って行く方へ一目さんに
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