二三

 中山服のデモの群れに、支那将校が、瓜で口をもぐ/\動かしていた。市街《まち》は、さまざまな伝単の陳列会だ。剥げ落ちた朱門の上で、細長い竿の青天白日旗が、大きく風をはらんでいる。
 びっこの中津は、山東軍の綿服を、大褂児《タアコアル》に着かえた。彼は城内を出た。そして、張宗昌の落ちのびる列車に乗らず、商埠地にとゞまっていた。
 最近、張宗昌は、あの太い頸をねじ曲げるようにして、彼と視線がカチ合うのを避けた。ロシア人のミルクロフもよくなかった。いゝのは、第十五夫人の弟の蔡徳樹《サイトウシュ》である。中津は、すゞに未練を残して宿州へ出かけて以来、前々から抱いていた直感をたしかめた。
「やっぱし俺を好かなくなりやがったんだな。」
 張は、彼に、ものを云わなかった。やって来た旨を述べても、たゞ会釈したのみだ。
「好かなけゃ、すかなくってもいゝさ。」と彼は考えた。
「人間の好悪の感情は、自分自身でも、どうにも支配のしようがないもんだ。それくらいのことは俺にだってある。分りきった話だ。」
 それでも、彼はいくらか、やけくそになった。昔の本性を現わした。張大人に相談もせず、臨城で退却して来る将卒をピストルで射殺した。癒る見込のない負傷兵は片づけッちまえ! という命令を出した。
 埋められる負傷兵は、
「可哀そうだと思って下され! 私たちは、大人のために戦って、負傷をしたのじゃありませんか。――こんな生きている者を埋めるんですか?」
 と憫れみを乞うた。
「張大人のために負傷をして、張大人のために埋められるんさ。お前たちが大馬鹿さ!」これは、中津が、中津自身に向って云ってもいい言葉だった。
「それゃ、不憫じゃありませんか! それゃ不憫じゃありませんか!」
 わい/\声をあげて泣き叫んだ。
 殺伐な荒仕事は彼の荒んだ感情を慰めた。
 大人は、何らの謀計もなく、意気地もなく古い首都へ退却した。そして、二カ年半住みなれた、督弁公署を捨てゝしまった。ここを捨てれば全然の没落だ。民心は離反している。張作霖からは、譴責《けんせき》を喰っている。没落以外に道はない。中津は、それを観取していた。
「くそッ! 今が、あいつとの腐れ縁も見切時かな。」
 ……彼は、昔の浪人にかえってしまった。戦線から退却してくると、直ちに、猪川の家へ立ちよった。竹三郎が、留置場に呻吟している。家に幹太郎以外、男けがない。これも昼間はいなかった。これは、彼に、頗る好都合だった。暫らく、前線に出て、すゞを見なかったことは、彼の気持を枯淡にせしめるどころかむしろ、五十の情熱をかり立てるのだった。
 彼の、すゞに対する感情は、老人が、自分の孫にあたるような幼い娘を、老後の断ち切ることの出来ない欲情から愛《め》ずる。――そういう気持になるかと思うと、ええい、恋のへちまのと、上品ぶったまだるッこいことは面倒だ。いっそ、荒療治で、あっさりと無断で失敬して行っちまおうか? その方が面白れえや! と、この二ツの間を、乗合いみたいに往復した。彼は、このブラ/\する自分の感情を噛みしめるのが愉快だった。
 噛みしめて、そのさきをどうするか、それを空想するのが愉快だった。

 中津の、再度の訪問、これは、すゞにも、俊にも、それほど、恐怖を与えなかった。
 市街の、その行きつまったところには、河があった。古代より湧き出ている城内の泉からつゞいているその水は、音をたてなかった。丸腰の支那兵が、河馬の群れのように、その中へ頭を突ッこみ、濁している。
 街の一方は、青鼠の中山服の兵士たちが、蟻のように一面に這いまわっていた。他の一方には、土嚢塁の中でカーキ服が光っていた。シャモが蹴あいをやる、その前に、まず睨めッこをして相手のすきを伺う、それのようだった。何等奪われるものを持たない乞食や、浮浪漢は強かった。
 すゞも、俊も、お母も、自分達の家が、中山服の蟻と、乞食、浮浪漢の群れの中に、ポツンと一つだけ、存在しているのを知っていた。そして、それにおびえた。ほかは皆な支那人だ。
 山東軍は、退却際に、行きがけの駄賃として、数カ所で金品を奪い、むやみな発砲をした。中山服の眼には敵意があった。不安は、ます/\ひどくなった。
 馬賊上りの、つわものゝ、中津の来訪は、この不安と恐怖に、若干の、主観的な緩和剤となったのである。中津は、ピストルがうまい。睨みがきく。彼がいてくれることは、彼女達を心強くした。
 石を敷いた狭いゴミだらけの通りを、え[#「え」に傍点]体の知れない支那人が、犬のようにうさんくさく行ったり来たりする。猪川の家は、石の重い、壁の厚い、支那式の家でありながら、壁に切りあけた窓と、四国の田舎にありそうな、石の築《つ》き塀などによって、すぐ支那人の住家とは見分けがついた。すゞも、俊も、母も、長い、フ
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