帰るまで、あいつは、何もほかのものは見てやしませんよ。すゞと、俊ばっかし、顔に孔があく程見つめに見ているんですよ。――俺れゃ、ちゃんと知っとる。」
「それには、私も気がついています。」母が内気に口を出した。
「それ、そうでしょう。きっと、あいつ気があるんですよ。」
「馬鹿、――五十三にもなって、人間が、自分の子供のような娘をどう思うもんか。」
「でも、男は、年がよる程、若い娘がよくなるという話じゃありませんか。それに、あの人は、まだ独身者ですよ。」
「馬鹿、馬鹿! 何てお前ら、邪推深いんだね。――中津は俺のえゝ朋輩だぞ。俺れゃ、あいつの気心をようくのみこんどる。あいつは、そんな義理にそむいた、見っともないことをやらかす男じゃないよ。」親爺は四五年前から中津を知っていた。
 だが、幹太郎の疑問は誤っていなかった。
 チンバがやって来ると、おかしがって、家の中をはねとんでいたすゞ[#「すゞ」に傍点]が、門の外から王《ワン》を呼ぶ中津の巾《はば》のある押しつけるような声に、耳の根まで真紅に染め、どこかへ逃げかくれだした。
 中津の視線は、鋭く、燃えさかっていた。その視線に出会すと二十のすゞ[#「すゞ」に傍点]が堪えきれないばかりでなく、俊や、おふくろまでが、心臓をドキリと打たれた。
 中津はひげ面のひげを青く剃り、稍々《やや》ちゞれる癖のある、ほこりをかむった渦まける髪をきれいに梳《くしけず》って、油の臭いをプンプンさしていた。
 終日家につかっていた。この馬賊上りの、殺人、強盗、強姦など、あらゆる罪悪を平気でやってのけた鬚づらの豪の者が、娘々したすゞ[#「すゞ」に傍点]に少なからず参っている有様は、実際不思議だった。彼は五十三の老人とは見えなかった。彼は、おぼこい二十歳の青年のように、少女の魅力に悩まされ切っているところがあった。

 ある朝、馬貫之《マクアンシ》の犬の『白白《ぺいぺい》』が火のついたように吠えた。
 幹太郎は、それで眼をさました。すゞが起きかけたようだった。
 犬は燃えるようなやかましさで吠えつゞけていた。暫くしてすゞは窓をあけに立った。と、緊張した足どりで、兄の枕頭へかえってきた。
「また、たアくさん、領事館から来ているよ。」
 彼女の声には、真剣さがあった。そして、どっかへ身をかくしてしまい度《た》そうだった。幹太郎は、はね起きた。
 周囲は、厳重
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