ニコチン中毒のひどい奴より、もっとひどくブル/\ふるえた。手と同時に、椅子にかけた脚もブル/\ふるえていた。隣家の、観音開きの戸口からは、馬貫之の細君が、歯がすえるヴァイオリンのような歌を唄うのがひびいてきた。
慄える手に握られた彼の乳棒も、歯をすやすように、がじがじと気味悪く乳鉢の※[#「石+並」、第3水準1−89−8]面《へいめん》にすれていた。
「ヘロが一本三千円、……ヘロが一本三千円……」
乳棒は、丸い乳鉢の中をがじ/\まわりながら、こう呟いている。竹三郎にはそんな気がした。「ヘロが一本三千円、ヘロが一本三千円……」これは変になった彼の頭の加減だった。
支那靴の足音がした。俊がさかさまにひっくりかえったような叫声をだした。竹三郎がうしろへ向くと、平服の身体のはばが広い支那人が立っていた。かくす暇も、何もなかった。
「それゃ何だね?」
支那人の大褂児《タアコアル》の下では、剣ががちりと鳴った。どっか顔に見覚えのある巡警だった。
「それゃ何だね?」
竹三郎は、すくみ上がるように憐憫を乞う、哀しい眼つきでこの支那人を眺めていた。
「そいつは何だね? どら、こっちへよこせ! すっかり貰って行くんだから。……もっと/\まだまだかくしとるんだろう。出せ! すっかり出しちまえ!」
竹三郎はヘロ中と恐怖で二重にふるえた。椅子が地べたへ崩折れそうだった。
そこへ又、もう一人、小柄な大褂児の支那人が、ひょこひょこッと這入って来た。様子で、相棒であることが云わずとも知れた。支那人の大きな手は、かしゃく[#「かしゃく」に傍点]なしに、乳鉢を掴みにきた。
「ちょっと、待って! ちょっと待って!」
うしろから、わく/\しながら眺めていたお仙は、何を云うともなく支那語をくりかえして隣室へ立った。彼女は、机の引き出しから一円銀貨を掴んできた。
「請悠等一会児《チンニントンイホイル》。」
そして、彼女はおど/\しながら、二人の大褂児の袖の下へ、その大洋《タアヤン》を入れてやった。俊は蒼白になってしまった父と母を見ていた。巡警は、大褂児へ手をやって、母が入れたものをさぐっていた。
「たったこれっぱちか!……。もう二元よこせい! もう二元!」
おどかしつける声だった。母は、哀れげな父を見た。昔、村会議員の収賄を摘発しようとした彼の眼が、今は、もう、全く無力な、濁ったものとなっ
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