意をひかれた。彼女は、よち/\の一郎の手を引いて、石畳の上を隣の馬貫之《マクワンシ》の家から出てきていた。
「あれは、何故、あんなところに立ってるんでしょう?」俊は、巡警の方へ、頸を長くして、馬貫之の細君にたずねた。彼女は、はじめて気がついたのだ。
「あら、猪川さん、まだご存じなかったんですか?」と、纏足の若い細君は答えた。これは、隣同志で、非常に仲よくしていた。細君は、一寸、云いにくげに、舌の根を縺《もつ》らした。「もう、あいつ、五日も前から毎晩立ってるんですよ。あんたの家、用心なさいね。」
「一体、どうするって云うんでしょう?」
「買々《マイ/\》を見張っているのよ。丸子《ワンズ》を買いに来る人を見張っているのよ。」と細君は、弱々しげな吐息をついた。「立っていて、丸子を買いに来させまいとしているのよ。」
俊は、自分の家の商売を、馬貫之の細君の前に恥じて、頸まで真紅になってしまった。彼女は、一郎を抱き上げて家の中へ走《は》せこんだ。竹三郎は磨いた煙槍《エンチャン》をくわえて、赤毛布の上に横たわり、酒精《アルコール》ランプを眺めながら、恍惚状態に這入ろうとしていた。来訪の諱五路の骨董屋と、母が話相手をしていた。骨董屋は、今朝、戦線へ出動した山東兵が、雨傘を持ったり、石油罐の一方をくり抜いて太い針金を通したバケツをさげていた、と笑っていた。
「あいつ、ぬしとの番人にもならねえんだぞ。」
俊の報知は、母には恐怖をもたらした。骨董屋には、別の違ったものをもたらした。
「裏からやって来る人間は咎めたって、泥棒にゃ、見て見ん振りをしていら。」
「でも泥棒の方で、ちっとは遠慮するでしょう。」
母は恐怖を取りつくろった。
「馬鹿云っちゃいけねえ。あんな奴が居たっていなくたって、同じこったくらい泥棒はちゃんと心得ていますよ。経験で。」
巡警は、人が出入をするのは、暗くて見分けのつかない夜間だと睨んでいた。昼間は立たなかった。ところが、商売は昼間のうちにすんじまった。
宵から、夜ふけまで夜ッぴて立ちつくして、獲物は一匹もあがらなかった。しかし、獲物があがらないということは巡警の疑念を晴らす足しにはちっともならなかった。
昼間、竹三郎は、天秤と、乳鉢と乳棒を出して仕事をした。昼間なら安心していられた。第三号に、いろ/\なものをまぜて、丸子を作る。匙を持つ手は、ヘロ中の結果、
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