村の九割までは、『松葉屋』に掴まされて、ぱたりと騒動が静まった。
 すべての証拠は湮滅《いんめつ》された。
 誣告罪《ぶこくざい》の攻撃が、今度は、反対に村中から、親爺に向って降りかかった。『庄屋』は、門の用材に伐った松が、竹三郎の所持林の境界線をはずれて、『庄屋』自身の山にあったものだと云い出した。
 その松は、皮をむかれ、削られて建ったばかりの門の背骨のような附木となっていた。
 親爺は樹泥棒だった。庄屋は、その樹を戻せと云い出した。だが、その樹を戻すには、折角建った門を、屋根瓦を引っぺがし、塗った壁を叩き落し、組立てた材木をばらばらにしてしまわなければならなかった。――所持林の境界線を間違えた――ごま化したことは、すっかり親爺の信用を落してしまった。
 彼は買収のきく村の人間に愛想をつかした。そして、村の人間は、樹泥棒であり、誣告人である彼に、頭から見切りをつけた。
 八月の末のある晩、親爺は、幹太郎と妹を残して村を出た。路ばたの草叢では蟋蟀《こうろぎ》が鳴き始めていた。家の前の柿の古樹の垂れさがった枝には、渋柿が、青いまゝに、大変大きくなっていた。その下の闇を通ると、実がコツ/\と頭を打った。
 親爺は、村のはずれの船橋を渡ると馬車に乗った。馭者の両脇の曇ったガラスの中のローソクは、ゆら/\とゆれていた。
「さよなら! さよなら!」

 幹太郎は長いこと寝つかれなかった。
 ――あれから親爺の転落が始まったのだ。あんなことさえなかったら、俺等だって、支那へなんか来てやしないのだ! 彼はやはり、いつかは内地へ帰ってしまいたい希望を捨てなかった。腐った奴等に叩き落されて、リン[#「リン」に傍点]落して行く、彼等もその中の一人だった。どこでも大きなものに媚《こ》びへつらう、卑屈な奴等がうまくやって行くのだ! 彼は長いこと寝つかれなかった。
 犬が根気強く吠えていた。黄風《ホワンフォン》は轟々と空高く唸った。彼は、でくの坊のように、骨ばった親爺が、ひょく/\と日本建ての家の中を歩いている夢を見ていた。親爺は、何か厚い帳簿を持って廊下へ出た。廊下には戸がたてゝある。親爺は、薄暗い廊下で、脚が引きつるものゝようにひょくひょくした。そのひょうしに、かたい頭が、はげしく戸板にぶつかった。ガタン/\という音がした。すっかり内地における出来事だ。
 幹太郎は、ふと、眼がさめ
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