月末に受け取る筈の一カ月分の給料と、四月になってから働いた分を貰わず、そのままとなっていた。
彼等の仕事は、すべて請負制度だった。
彼等は、函詰、百八十盒でトンズル一文半(日本の金で約九厘)を取った。軸列一台(木枠三十枚)トンズル二文半、外し一車につき、一文、小箱貼り、軸木運び、庭掃は一カ月二円か三円だった。骨が折れること、汚いこと、燐の毒を受けることはすべて彼等がやった。日本人はピストルを持って見張っているだけだ。
そして燐寸は、中国の国産品と寸分も異わないものが出来上った。商標も支那式で「大吉」を黄色い紙に印されていた。レッテルの四隅には「提倡国貨」(国産品を用いましょう)とれい/\しく書いてあった。
これは排日委員会で決議されたスローガンの一ツだ。それが、うま/\と逆用されていた。――なる程、何から何まで、すべてが支那人の手によって作られたものである。支那の国で作っている。だから、支那の国産品にゃ違いなかった。資本をのければ。
猛烈な日貨排斥運動に、皆目売れ口がない神戸マッチを輸入して、関税や、賦金や、附加税を取られるよりは、労働賃銀が安い支那人を使って、全く支那の製品と違わない「国産品」を、支那でこしらえ支那で売る方がどれだけ合理的なやり方か知れない。
大井商事は、とっくにこれに眼をつけていた。マッチだけじゃない。資本家は、紡績にも、機械にも、製粉にも、搾油にも、製糖にもこの方法を用いていた。世知辛い行きつまった内地で儲けられない埋め合せはここでつけた。
工人達の窮乏は次第に度を加えて来た。彼等はただ饅頭《マントウ》や、※[#「火+考」、第3水準1−87−43]餅《コウビン》のかけらを食わして貰うだけだった。そして湯をのまして貰うだけだった。金は一文もなかった。
金がない為めに、一本の煙草も吸えなかった。ぼう/\となった髪を刈ることが出来なかった。
稼いで金を送って、家族を養うことが出来なかった。
三日も四日も飯にありつけない、彼等のおふくろや、おやじや、妻が、キタならしいなりをして息子に面会を求めに来ても、門鑑はそれを拒絶した。
内には、親にあいたい息子がいた。娘がいた。妻にあいたい夫がいた。夫にあいたい妻がいた。
外には、息子や夫の仕送りを待っている親や、妻がいた。
小山達は、会せた後の泣きごとを面倒がって、会せなかった。
さ
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