、ポケットに、片手を突ッこみ、光った眼で前方を見つめていた。じっとしていられない焦躁が、その身体全体に現れていた。妻と子供を見失ってしまった人だった。
「まあ、小出さん! おききなさい。うちの百々ちゃんはね……」
 また、牝鶏がうるさく繰りかえしだした。

 すゞは、中津らが彼女の家へ押し入ってきた時、俊と一郎と三人で隣の馬貫之《マカンシ》の棕梠《しゅろ》の張った床篦子《チャンペイズ》の下で小さくなっていた。それを覚えている。たしかに三人だった。寝台にも、寝具にも、その附近すべてに、支那人の変な匂いがしみこんでいた。
 家の方では、大勢の荒々しい足音と、罵る叫び声と、破壊の騒音が渦を巻いていた。板をはぎ取るめりめりボキン。戸棚が倒れる轟音、硝子が割れる音、壁がどさる音。
 恐る、恐る、彼女は床篦子の下から這い出て窓に近づいた。そして、眼だけを出して外をのぞいた。石畳の、無気味な小路に、青鼠服の兵士が、いっぱいうごめいていた。
 彼女の手ミシンを小脇にかゝえて、向い側の小路へ消えて行くよごれた男があった。針金の鳥籠が踏みへしゃがれていた。
 よく隣の馬貫之の細君にかくして貰ったものだ。
 誰れか、外から門を叩く音がした。殺しに来た気がした。また床篦子の下へ這いこんで首をすくめた。
 荒々しい足音が近づいた。彼女達は呼吸《いき》をとめて耳を澄ました。
 馬貫之だ。
「あなたがた、ここにいては危いです。早く便所にかくれなさい。」――馬貫之は親切だった。
 便所へ逃げた。
 そこも、見つかり易かった。困った。もひとつ隣の支那人の家が、この便所にくッつこうとする、そこに隙間があった。俊は、夢中に、六尺の塀をよじのぼった。そして、その間にとびおりた。そこはよかった。すゞもあとからつづいてとびおりた。
 五六人の足音が、塀の向側でどやどやと椅子や箱を蹴散らしている。
 便所にも来る様子がした。塀がドシンと蹴られた。耳をすました。話声は支那語だ。中津だろうか南兵だろうか? どっちにしろ見つかれば殺されるか、裸体《はだか》に引きむかれるかだ。
 家と家の隙間は、反対側の小路に通じて開いていた。慌てゝ、白足袋|跣足《はだし》で、逃げて行く人かげが細い間からちらッと見えた。着剣のカーキ服が馳せて来る。何も考えるひまはなかった。その小路へとび出した。
 そして、人が走って行く方へ一目さんに
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