出したビラだ。学校の、漢文読本の漢本とも、またいくらかちがう。俊はなかなかそれが読めなかった。
「ま、待ってなさいよ。」
 手で掴み取りに来る一郎を彼女は追いやった。玩具の犬をやる。
 ――国民政府は、この地方に限り、租税を全額免除する。……
 一郎は、犬をほうった。そして、また手を拡げて掴みかかってくる。ビラは皺くちゃになる。俊はそれをのばして、またよんだ。
 ――張作霖、張宗昌、強盗、強姦、売国的………
 ふと、一郎は、両手で彼女の手からビラを叩き落してしまった。紙はずた/\になった。まだ、よみさしである。
 俊は、それが惜しいとは思わなかった。彼女は、何か考えていた。すゞは、一心に、ミシンに注意を集中している。針が急速に、規則的に上下する。縫目がジャリ/\と送られて行く。
「ちょっと、あの人、今日、何だか変におかしかったわよ。」
「なアに?」
 すゞは空虚な返事だった。
「なにか、たくらみがありそうだったわよ、あの怒ったような眼で、じろ/\家ン中や、私達を見て行っただけじゃないわ。眼と、口もとの笑い方に、恐ろしい何かがあったわよ。」
「そうかしら。」
 猫のような俊は、先日からの中津の行動をいろ/\に思い起していた。恐ろしい何かの兆候が、二三日も四五日も前からあった。
「ちょっと! ちょっと!……」
 俊[#「俊」は底本では「俟」]はまた姉を呼んだ。……

 支那宿の東興桟《トウコウサン》の一室には、張宗昌の退却後、変装をして市街にとゞまっている中津の仲間が集っていた。四五人だ。荒っぽい、無茶な仕事が飯より好きな連中だった。せいの低いずんぐりした唐《タン》は素手で敵の歩哨に掴みかゝって、のど笛を喰い切り、銃と剣を奪ってくるような男だった。金持の娘や、細君を、人質にかっぱらった経験は、みんなが三回や、五回は持っていた。
 床篦子《チアンペイズ》、卓子《チオズ》、机子《ウーズ》、花模様の茶壺、旅行鞄、銀貨の山。
 中津は、何回となく空想で練り直した掠奪の計画を、実行する段になって、なお、心は迷っていた。いっそ、根本からよしてやろうか。孫娘を可愛がるように、可愛がるのはいゝことだ。その方がいゝかもしれん。こんなに迷うことは、嘗てなかった。が仲間には、それは、おくびにも出さなかった。ともかく実行方法を話した。仲間を三台の自動車に分けて乗らす、日本軍の守備区域を走る時に
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