きなり事務室へとびこんで来た。彼は吃驚《びっくり》した。
 お母は、息を切らし、虫がつめた子供のような眼をして、どういっていいかわからないものゝように、何も喋れなかった。幹太郎はそれを見たゞけで、すぐ、すゞがかっぱらわれたのではないかと不安にされた。
「早よ、S病院、去《チュイ》。あなたのお父ツぁん、負傷あります。日本太夫《リベンタイフ》、診《み》て、出血あります。クヮイクヮイデ。」
 詰襟の善人らしい支那人は、日本語と、支那語を、ごちゃごちゃに使った。早く、幹太郎に用談を伝えようとあせる。距離のある眉と眉の間に、皺をよせた。あせると、あせるほど、日本語は舌の先でもつれてしまった。業を煮やして、とうとう、支那語ばかりで叫んだ。分った。
 幹太郎は、軽蔑の眼を、小山とかわして冷笑している支配人に、むっとするものを抑えて、一言、ことわった。そして、すぐ、病院の方へとび出した。兵士たちが、街上に撤退する拒馬を重そうにひきずっていた。
「ちょっと待ちなさい。」母があとから呼んだ。
「……。」
 幹太郎は、母だと知りつゝわざと返事をしなかった。
「ちょっと待ちなさい!」母は繰りかえした。
「何ですか?」彼は怒ったような声を出した。
「これを持って行かなきゃ駄目なんだよ。」虫がつめた子供のような母は、門鑑の巡警の前に立っていた。「これがなけりゃ駄目なんだよ。」
 帯の間から、小さい、紙の小匣《こばこ》を取り出した。「快上快《クワイシャンクワイ》」だ。
「家は大丈夫ですか?」
 幹太郎は、云いたくないと思いながら、やはり中津が気にかゝって口に出してしまった。
 母は、何をきかれたのか解しかねて黙っていた。
「家は、すゞと俊で大丈夫ですか?」
「あゝ」と母は無心に云った。「今、さっき、出しなに、長さんが、すれちがいにやって来た。大丈夫だよ。」
「中津がやって来た!――何をやり出されるか分らんじゃないですか!」
「……。」
「あんたは、こゝからお帰ンなさい。」幹太郎は小さい行きがかりの感情にこだわっていられないと思った。きっぱり云った。
「お父さんは、どうなんだろう。」母は躊躇した。
「すゞと俊では、どんなことをせられるか油断がならんじゃありませんか。」
「でも……」
 やはり、夫が気にかゝるらしかった。どうなとなれ! これ以上強いることは出来なかった。母は病院へ急ぐ彼のあとから、詰
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