九

 青い大麦や、小麦や、裸麦が、村一面にすく/\とのびていた。帰来した燕は、その麦の上を、青葉に腹をすらんばかりに低く飛び交うた。
 測量をする技師の一と組は、巻尺と、赤と白のペンキを交互に塗ったボンデンや、測量機《レベル》等を携えて、その麦畑の中を行き来した。巻尺を引っ張り、三本の脚の上にのせた、望遠鏡のような測量機《レベル》でペンキ塗りのボンデンをのぞき、地図に何かを書きつけて、叫んでいた。
 英語の記号と、番号のはいった四角の杭が次々に、麦畑の中へ打たれて行った。
 麦を踏み折られて、ぶつ/\小言を云わずにいられなかったのは小作人だ。
 親爺は、麦が踏み折られたことを喜んだ。
 地主も、自作農も、麦が踏まれたことは、金が這入ることを意味する。
 敷地買収の交渉が来た。
 一畝、十二円六十銭で買った畠を、坪、二円三十銭で切り出して来た。一畝なら、六十九円となる訳だ。
 親爺は、自家《うち》に作りたい畠だと云って、売り惜んだ。
 坪、二円九十銭にせり上った。
 親爺は、地味がいゝので自家に作りたい畠だと、繰りかえした。そして、売り借んだ。単価がせり上った。
 僕は、傍《そば》でだまってきいていて、朴訥な癖に、親爺が掛引がうまいのに感心した。坪二円九十銭なら、のどから手が出そうだのに、親爺はまるッきり、そんな素振りはちっとも現わさないのだ。
 とうとう、三円五十銭となった。
 家の田と畠は、三カ所、敷地にひっかゝっていた。その一つの田は、真中が敷地となって、真二ツに切られ、左右が両方とも沿線となるようになっていた。
 敷地ばかりでなく、沿線一帯の地価が吊り上った。こんなうまいことはなかった。
 田と畠を頼母子講の抵当に書きこみ、或は借金のかわりに差押えられようとしていた自作農は、親爺だけじゃなかった。庄兵衛も作右衛門も、藤太郎も、村の自作農の半分はそういう、つらいやりくりであえいでいた。それが、息を吹きかえしたように助かった。地主はホク/\した。卯太郎は、いつか五千円で町に近い田を売って、そのうちの八十五円で畠を買った。その畠が、また今度、鉄道の敷地にかゝっていた。
「貧乏たれ[#「たれ」に傍点]が、ざま見い。うら等、やること、なすことが、みんなうまくあたるんじゃ。わいら、うらの爪の垢なりと煎じて飲んどけい。」
 彼は太平楽を並べていばっていた。
「何ぬかすぞい! 卯の天保銭めが!」
 麦を踏み荒されたばかりで敷地となる田も畠もない持たない小作人は、露骨な反感を現わした。
「うちの田は、ちょっとのことではずれくさった。もう五間ほどあの電車道が、西へ振っとったら、うちにもボロイ銭が這入って来るんじゃったのに!」
 と、残念がっている者もあった。
「伊三郎にゃ、あれだけ土地を持っとって、どうしたんか、相談でもしたように、はずれとる。」おふくろは、他人の事を嬉しげに話をした。トシエが逃げ返った仇をこゝで取っているような気持だった。「かゝっとるんは、たった一枚だけで、ほかは、角だけ一寸ふれとるんが、二たところあるばっかしじゃ。」
「へへえ、そいつは面白い。」
 僕も、何か、気味たいのよさを感じた。
「それで、あしこにゃ、子供を学校へやった借金はあるし、年貢は、小作が、きちん/\と納めやせんし、くやん[#「くやん」に傍点]どるとい。」
「そいつもばち[#「ばち」に傍点]じゃ。かまうもんかい。」
 敷地に杭を打たれたところへは、麦を刈り取ったあとで、鍬《す》きも、耕しも、植付けもしなかった。夏は、青々とした雑草が、勝手きまゝにそこに繁茂した。秋の末になると、その雑草は、灰色になって枯れた。黄金色にみのった稲穂の真中を、そこだけは、真直に、枯色の反物を引っぱったようになっていた。秋からは、その沿線附近一帯をも、あまり儲けにならない麦を蒔かずに、荒れるがまゝに放って置く者もあった。
 冬の始めになった。又、巻尺と、赤と白のペンキ塗りのボンデンを持った測量の一組がやって来た。そして、望遠鏡のような測量機《レベル》でのぞき、何かを叫んで、新しく、別なところへ持って行って、四角の杭を打ちつけた。杭と杭とをつなぎ合す線は、今度はいくらか蛇のようにうねってきた。
「またもう一つ、別の電車をつくんじゃろうか。」
 親爺は、測量をする一と組の作業を見てきて心配げな顔をした。
「こんなへんぴ[#「へんぴ」に傍点]へ二つも電車をつけることはないだろう。」
「ふむ。それは、そうじゃ。」
 人々は、新しい杭が打たれて行くあとへ、神経を尖らしだした。敷地は、第一回の測量地点から、第二回の測量地へ変更されることになったのだ。
 はじめの測量には、所有地が敷地に這入っていたのに、今度は、はずれている。そんな地主や自作農もあった。はじめは、四カ所もはいっていたのに、今度は、一坪もふれていない。そんな者もあった。恐慌が来た。うまい儲けにありつけると思って、田を荒らして、待ちかまえていた。それだのに、そのあてがはずれてしまった。呆然とした。
 新規の測量で、新しく敷地にかゝったものは喜んだ。地主も、自作農も、――土地を持っている人間は、悲喜|交々《こも/″\》だった。そいつを、高見の見物をしていられるのは、何にも持たない小作人だ。
「今度もみんごと、家にゃ、四ツところかゝっとる。」と、親爺は、胸をなでおろした。「しかし、先の方が痩地ばかり取って呉れるようになっとったのに今度は分が悪るなっとるぞ。それに、こうかえられては、荒らした畠を、また作れるように開墾するんがたいへんじゃ。」
 線路を、どうしてわざと曲りくねらすのか、それが変だった。直線が一番いゝ筈じゃないか。一寸、そんな気がした、すると、誰れかゞ、
「今度ア、伊三郎の田を入れるとて、わざと、あんな青大将のようにうね/\とうねらしてしまったんだぞ。」
 こう云い出した。実際、今度は、伊三郎の田が、どいつも、こいつもひっかゝっていた。
「停留場を、あしこの田のところへ、権現の方のを換えて持って行くというじゃないか?」
「だいぶ重役に賄賂を掴ましたんじゃ。あの熊さんを使うてやったんじゃよ。――熊の奴この夏からさい/\K市までのこ/\と出かけて行きよったじゃないか。」
「そうか、そんなことをやりくさったんか。道理で、此頃、熊と伊三郎がちょん/\やっとると思いよった。くそッ!」
 敷地にはずれた連中は、ぐゎい/\騒ぎ出した。敷地に這入るか、這入らないかは、彼等の家がつぶれるか、つぶれないかに関係していた。真剣に、目を血ばしらすのは当然だった。
「そんじゃ、こっちも、みんなで、ほかの重役のとこへ膝詰談判に行こうじゃないか。伊三郎が、そんなことをしくさるんなら、こっちだって、黙って引っこんでは居れんぞ。」
「うむ、そうだ、そうだ。黙って泣寝入りは出来やせん!」
 K市へ出かけて行った連中は埒《らち》があかなかった。
「やっぱし、人間のずるい、金の融通のきく奴が、うまいことをしくさるんだ。」僕は、それを見ながら、この感じを深くした。裏でこそ/\やる人間が、なんでもうまいことをしているんだ。馬鹿正直な奴が、いつでも結局、一番の大馬鹿なんだ。
 ある晩、わい/\騒いでいる久助の女房は、伊三郎の家に火をつけた。が、それは、火事とならずにもみ消された。小作人も、はずされた仲間の方についた。伊三郎の田は、六月の植えつけから、その三分の二は耕されず雑草がはびこるまゝに荒らされだした。
 だが、それから間もなくだった。
「や、大変なこっちゃ。これゃ、何もかもわや[#「わや」に傍点]じゃ!」
 親爺はぴっくりして、鶏の糞だらけの鶏小屋の前で腰をぬかしていた。
「どうしたんじゃ? どうしたんじゃ?」
「これゃ、わや[#「わや」に傍点]じゃ。 何もかもすっかりわやじゃ。来てくれい! どうしよう? どうしよう?」
 親爺は腰がぬけて脚が立たなかった。彼が鶏に餌をやろうとしていた時、KS電鉄の重役が贈賄罪で起訴収容され、電車は、おじゃんになってしまったことを、村の者が知らしてきたのである。
「何だ、そんなことで腰をぬかすなんて!」
 僕は立つことの出来ない親爺を見ながらなぜか、清々とするものを感じるのだった。
 村は、歓喜の頂上にある者も、憤慨せる者も、口惜しがっている者も、すべてが悉く高い崖の上から、深い谷間の底へ突き落されてしまった。喜ぶことはやさしかった。高い所から深いドン底へ墜落するのは何というつらいことだろう!
 荒された土地には依然として雑草が繁茂し、秋には、草は枯れ、そこは灰色に朽ち腐った。

      一〇

 やがて親爺が死んだ。
 慶応年間に村で生れた親爺は、一生涯麦飯を食って、栄養不良になることも、早く年を取り、もうろく[#「もうろく」に傍点]することもかまわずに、たゞ、いくらかの土地を自分のものとし、財産を作って、子供に残してやろうと、そればかりを考えていた。
 死ぬ前には、親爺はぼれ[#「ぼれ」に傍点]ていた。若い時分、野良で過激に酷使しすぎた肉体は、年がよるに従って云うことをきかなくなった。
 親爺は、肥桶《こえおけ》をかついだり、牛を使ったりするのを、如何にも物憂げに、困難げにしだしていた。米俵をかつぐのは、もう出来ないことだった。晩には彼は眠られなかった。四肢がけだるく、腰は激しい疼《うず》くような痛みを覚えた。昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。それが、今は、不思議に身体全体が、もの憂く、悩ましく、ちょっと立上るのにさえ、重々しく、厄介に感じられた。
 夜があけると、彼は、鍬をかついで、よぼ/\と荒らされた土地を勿体ながって開墾に出かけた。仕事ははかどらなかった。
 土地の方が、今度は彼を見捨てゝしまった。
 田も畑もすべて借金の抵当に這入っていた。そして、電鉄が中止ときまってからは、地価は釣瓶落ちに落ちた。親爺は、もう、彼の力では、大勢を再びもとへ戻すのは不可能だと感じたのに違いない。彼は、なお、土地を手離すまいと努力した。金を又借り足して利子を払った。しかし、何年か前、彼に、土地を売りつけに来た熊さんは、矢のように借金の取立てに押しかけて来た。土地を売ッ払ッて仕末をつけてしまうように、無遠慮な調子で切り出した。
 昔、彼が、破産した男の土地を、値切り倒して面白がって買ったように、今度は、若いほかの男が、彼の土地を嬲《なぶ》るように値切りとばした。二束三文だった。
 親爺は、もう、親爺としての一生は、失敗であり、無意義であり、朴訥と、遅鈍と、阿呆の歴史であった、と感じたのに違いない。彼の一代の総勘定はすんでしまった。そして残ったものは零《ゼロ》である。
 彼は、死んだ。その一生のつとめを終ってしまった樹木が、だん/\に、どこからともなく枯れかけて、如何なる手段を施しても、枯れるものを甦らすことは出来ないように死んでしまった。
 土地も借金も同時になくなってしまったことを僕は喜んだ。せい/\とした。虹吉は、K市から帰って来た。
 それからおふくろが死んだ。おふくろは、町にいる虹吉のことを、巡査が戸籍調べの振りをして、ちょい/\訊きに来るのを気に病んでいた。巡査は、虹吉のことだけを、根掘り葉掘り訊きたゞした。妻はあるか、何をしているか、そして、近々、帰っては来ないか。――近々帰っては来ないか? これだけは、いつ来ても訊くことを忘れなかった。
 おふくろは、息子が泥棒でもやっているのではないか、そんな危惧をさえ抱かせられていた。
 僕等は、さっぱりとした。田も、畠も、金も、係累《けいるい》もなくなってしまった。すきなところへとんで行けた。すきな事をやることが出来た。
 トシエの親爺の伊三郎の所有地は、蓬《よもぎ》や、秣草《まきぐさ》や、苫茅《とまがや》が生い茂って、誰れもかえり見る者もなかった。
 僕と虹吉は、親爺が眠っている傍に持って行って、おふくろの遺骸を、埋めた。秋のことである。太陽は剃刀のようにトマトの畠の上に冴えかえっていた。村の集会所の上にも、向うの、白い製
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