かましく云わないでか!」
 母は、女房に甘い虹吉を、いま/\しげに顔をしかめた。
「そんなことを云うたって、お母あは、家が狭くなるほど荷物を持って来たというて嬉しがっとったくせに。」と、私は笑った。
「ええい、荷物は荷物、仕事は仕事じゃ。仕事をせん不用ごろが一番どうならん。」
 兄は、妻をいたわった。働いて、麦飯をがつ/\食うことだけに産れて来たような親爺とおふくろから、トシエをかばった。彼女の腰は広くなった。なめらかで、やわらかい頬の肉は、いくらか赭味を帯びて来た。そして唇が荒れ出した。腹では胎児がむく/\と内部から皮を突っぱっていた。

      四

 百姓は、生命よりも土地が大事だというくらい土地を重んじた。
 死人も、土地を買わなければ、その屍を休める場所がない。――そういう思想を持っていた。だから、棺桶の中へは、いくらかの金を入れた。死人が、地獄か、極楽かで、その金を出して、自分の休息場を買うのである!
 母が、死んだ猫を埋めてやる時、その猫にまで、孔のあいた二文銭を、藁に通して頸にひっかけさし、それで場所を買え、と云っていたのを僕は覚えている。
 金は取られる心配がある。家は焼けると灰となる。人間は死ねばそれッきりだ。が、土地だけは永久に残る。
 そんな考えから、親爺は、借金や、頼母子講《たのもしこう》を落した金で、ちびり/\と田と畠を買い集めた。破産した人間の土地を値切り倒して、それで時価よりも安く買えると彼は、鬼の首を取ったように喜んだ。
 七年間に、彼は、全然の小作人でもない、又、全然の自作農でもない、その二つをつきまぜたような存在となった。僅か、六|畝《せ》か七畝の田を買った時でさえ、親爺と母はホクホクしていた。
「今年から、税金は、ちっとよけいにかゝって来るようになるぞ。」
 土地を持った嬉しさに、母は、税金を納めるのさえ、楽しみだというような調子だった。兄と僕は傍《そば》できいていた。
「何だい、たったあれっぽち、猫の額ほどの田を買うて、地主にでもなったような気で居るんだ。」兄は苦々《にが/\》しい顔をした。
「ほいたって、あれと野上の二段とは、もう年貢を納めいでもえゝ田じゃが。」
「年貢の代りに信用組合の利子がいら。」
「いゝや、自分の田じゃなけりゃどうならん。」と、母は繰りかえした。「やれ取り上げるの、年貢をあげるので、すったもんだ云わんだけでも、なんぼよけりゃ。ずっと、こっちの気持が落ちついて居れるがな。」
 村は、だん/\に変っていた。見通しのきく自作農の竹さんは、土地をすっかり売ッぱらって都会へ出た。地主の伊三郎も、山と畠の一部を売った。息子を農林学校へやる学資とするためだ。小作人から、自作農に成り上って行こうと、あがいている者も僕の親爺一人に止まらなかった。
 又、S町の近くに田を持っていたあの松茸番の卯太郎は、一方の分を製薬会社の敷地に売って五千円あまりの金を握った。
 こういう売買の仲介をやるのが、熊さんという男だ。三十二本の歯をすべて、一本も残さず金で巻いている。何か、一寸売買に口をかけると、必ず、五分の周旋料は、せしめずに置かない男だ。人々は、おじけて、なるべく熊さんの手にかけないようにする。熊さんを忌避する。が、熊さんは、売買ごとにかけると犬のような鼻を持っていた。どこから、どうして嗅ぎつけて来るのか、必ず、頭を突っこんで口をきいた。
 村へは電燈がついた。――電燈をつけることをすゝめに来たのも熊さんだった。
 がた/\の古馬車と、なたまめ煙管をくわえた老馭者は、乗合自動車と、ハイカラな運転手に取ってかわられた。
 自動車は、くさい瓦斯を路上に撒いた。そして、路傍に群がって珍らしげに見物している子供達をあとに、次のB村、H村へ走った。

      五

 十一月になった。
 ある夜、トシエは子を産んだ。兄は、妻の産室に這入った。が、赤ン坊の叫び声はなかった。分娩のすんだトシエは、細くなって、晴れやかに笑いながら、仰向《あおむけ》に横たわっていた。ボロ切れと、脱脂綿に包まれた子供は、軟かく、細い、黒い髪がはえて、無気味につめたくなっていた。全然、泣きも、叫びもしなかった。
「これですっかり、うるさいくびきからのがれちゃった。」
 トシエは悲しむかと思いの外、晴々とした顔をしていた。これは、まだ、兄の妻とならないさきの、野良で自由にはねまわり、自由に恋をした、その時の顔だ。妙に、はしゃいでいた。
 つゝましさも、兄に頼りきったところも、トシエの顔から消え去ってしまった。赤ン坊は死んでいたのだ。
 一カ月の後、彼女は、別の、色の生白い、ステッキを振り振り歩く手薄な男につれられて、優しく低く、何事かを囁きながら、S町への大通りを通っていた。
 虹吉も家を捨てた。

      六

 そして、僕が、兄に代って、親を助けて家の心配をして行かなければならない、番になった。
 こいつは、引き合わん、陰気くさい役目だ。

      七

 十六燭光を取りつけた一個の電燈は、煤と蝿の糞で、笠も球も黒く汚れた。
 いつの間にか、十六燭は、十燭以下にしか光らなくなっていた。電燈会社が一割の配当をつゞけるため、燃料で誤魔化しをやっているのだった。
 芝居小屋へ活動写真がかゝると、その電燈は息をした。
 ふいに、強力な電燈を芝居小屋へ奪われて、家々の電燈は、スッと消えそうに暗くなった。映写がやまると、今度は、スッと電燈が明るくなる。又、始まると、スッと暗くなる。そして、電燈は、一と晩に、何回となく息をするのだった。
 自動車は、毎日々々、走って来て、走り去った。雨が降っても、風が吹いても、休み日でも。
 藁草履を不用にする地下足袋や、流行のパラソルや、大正琴や、水あげポンプを町から積んで。そして村からは、高等小学を出たばかりの、少年や、娘達を、一人も残さず、なめつくすようにその中ぶるの箱の中へ押しこんで。
 自動車は、また、八寸置きに布片の目じるしをくゝりつけた田植縄の代りに木製の新案特許の枠《わく》を持って来た。撥《は》ね釣瓶《つるべ》はポンプになった。浮塵子《うんか》がわくと白熱燈が使われた。石油を撒き、石油ランプをともし、子供が脛《すね》まで、くさった水苔くさい田の中へ脚をずりこまして、葉裏の卵を探す代りに。
 苅った稲も扱《こ》きばしで扱き、ふるいにかけ、唐臼ですり、唐箕《とうみ》にかけ、それから玄米とする。そんな面倒くさい、骨の折れる手数はいらなくなった。くる/\廻る親玉号は穂をあてがえば、籾が面白いほどさきからとび落ちた。そして籾は、発動機をかけた自動|籾擂機《もみすりき》に放りこまれて、殻が風に吹き飛ばされ、実は、受けられた桶の中へ、滝のように流れ落ちた。
 おふくろが、昔、雨の日に、ぶん/\まわして糸を紡いだ糸車は、天井裏の物置きで、まッ黒に煤けていた。鼠が時に、その上にあがると、糸車は、天井裏でブルン/\と音をたてた。
「あの音は、なんぞいの?」
 晩のことだった。耳が遠くなったおふくろは、僕のたずねたことが聞えずに、一人ごとをつゞけていた。
「武井から、今日の昼、籾擂代を取りに来たが、その銭はあるか知らん?」
「あのブルン/\という音は何ぞいの?」
「籾擂を機械に頼みゃ、唐臼をまわす世話はいらず、らく[#「らく」に傍点]でええけんど、頼みゃ、頼んだだけ銭がかゝるんじゃ。」
「あの、屋根裏のおかしげな音は何ぞと云ってるんだ!」
「なに、なんじゃ。――屋根裏に銭があると云いよるんか?」
 おふくろはぼれ[#「ぼれ」に傍点]かけた。
 よなべに作る藁草履を捨てゝ地下足袋を買えば、金がいる。ポンプも、白熱燈も、親玉号も、みな金だった。その割に、売る米の値は上るどころじゃなかった。そこで、土地土地土地と、土地を第一に思っていたおふくろが、ぼれたなりに、今度は銭銭銭《ぜに/\/\》と、金のことばかりを独りごとに呟きだした。

      八

「孫七」の娘のお八重が、見知らぬ男と睦まじげに笑いかわしながら、自動車からおりて来た。
 情夫かと思うと、夫婦だった。
「太助」のお政も、その附近の者の顔ではない、別のタイプの男をつれて帰って来た。
 素性の知れた、ところ[#「ところ」に傍点]の者同志とでなければ、昔は、一緒にはならなかった。同村の者でなければ隣村の者と。隣村の者でなければ隣々村の者と。そして、夫婦をきめるのは、自分でなく、やかましい頑固な親だった。
 今は、町へ出た娘達は、そこで、でっくわした男と勝手に一緒になった。
 村へちょっと帰って、又、町へ出かけた。
 次に村へ帰る時、又、別の男と一緒になっていたりした。人々は、それを当然のように思っていた。見てもなんにも云わなかった。
 田舎に居っても、時が移り変っていることは感じられた。
 昔流の古るくさいことばかりを守っている者は、次第に没落に近づいていた。人の悪い、目さきのきく、敏捷な男が、うまいことをやった。薪問屋は、石炭問屋に変り、鶏買いは豚買いに変った。それでうまいことをやった。いつまでも、薪問屋ばかりをやっている人間は、しまいには山の樹がなくなって、商売をやめなければならなくなっていた。薪問屋は、中間搾取をやる商売だ。しかし、そこからさえ、ある暗示を感じずにはいられなかった。
 親爺は、やはりちびり/\土地を買い集めていた。土地は値打がさがった。自作農で破産をする人間、誰れもかれも街へ出て作り手がなく売りに出す人間、伊三郎が、又、息子の学資に畠の一部を売る場合――秋に入ると一と雨ごとに涼しくなる、そんな風に、地価は、一つの売出し毎に、相場がだん/\さがった。
 そんな土地を、親爺はあさりまわって買った。僕はそれを好かなかった。親爺は、買った土地を抵当に入れて、信用組合からなお金を借り足して、又、別の畠を買った。五六口の頼母子講は、すっかり粕になってしまっていた。
 頼母子講は、一と口が一年に二回掛戻さなければならない。だから、毎月、どっかの頼母子が、掛戻金持算[#「掛戻金持算」はママ]の通知をよこして来る。それで、親爺の懐はきゅう/\した。
 それだのに親爺は、まだ土地を買うことをやめなかった。熊さんが、どこへ持って行っても相手にしない、山根の、松林のかげで日当りの悪い痩地を、うまげにすゝめてくると、また、口車にのって、そんな土地まで、買ってしまった。その点、ぼれていても、おふくろの方がまだ利巧だった。
「そんな、やちもない畠や田ばかり買って、地主にでもなるつもりかい?」
 僕は馬鹿々々しさと、腹立たしさとで、真面目に取り合えない気になっていた。
「地主にゃこし、なれるもんか。たゞ、わいらにちっとでも田地を残してやろうと思うとるだけじゃ。銭を使うたら、それッきりじゃが、土地は孫子の代にまで残るもんじゃせに。」
 親爺は、朴訥《ぼくとつ》で、真面目だった。
「俺ら、田地を買うて呉れたって、いらん。」
「われ、いらにゃ、虹吉が戻ってくりゃ、虹吉にやるがな。」
「兄やんが、戻って来ると思っとるんか、……馬鹿な! もう戻って来るもんか。なんぼ田を買うたっていらんこっちゃ!」
 信用組合からの利子の取立てと、頼母子講の掛戻と、女房と、息子の反対は、次第に親爺を苦るしくして行った。
 三人が百姓に専心して、その収穫が、どうしても、利子に追いつかなかった。このまゝで行けば、買った土地を、又、より安くで売り払って、借金をかえさなければならなくなるのはきまりきっていた。
 もっと利子の安い勧業銀行へ人を頼んであたってみたりした。
 だが、ある日、春だった。
「うまいことになったわい。」親爺は、いき/\と、若がえったように、すた/\歩いて帰ってきた。彼は、やはり朴訥な、真面目な調子で云った。「今度、KからSまで電車がつくんで、だいぶ家の土地もその敷地に売れそうじゃ。坪五円にゃ、安いとて売れるせに、やっぱし、二束三文で、買えるだけ買うといて、うまいことをやった。やっぱし買えるだけ買うといてよかった。今度は、だいぶ儲かるぞ。」

 
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