たのに、今度は、一坪もふれていない。そんな者もあった。恐慌が来た。うまい儲けにありつけると思って、田を荒らして、待ちかまえていた。それだのに、そのあてがはずれてしまった。呆然とした。
 新規の測量で、新しく敷地にかゝったものは喜んだ。地主も、自作農も、――土地を持っている人間は、悲喜|交々《こも/″\》だった。そいつを、高見の見物をしていられるのは、何にも持たない小作人だ。
「今度もみんごと、家にゃ、四ツところかゝっとる。」と、親爺は、胸をなでおろした。「しかし、先の方が痩地ばかり取って呉れるようになっとったのに今度は分が悪るなっとるぞ。それに、こうかえられては、荒らした畠を、また作れるように開墾するんがたいへんじゃ。」
 線路を、どうしてわざと曲りくねらすのか、それが変だった。直線が一番いゝ筈じゃないか。一寸、そんな気がした、すると、誰れかゞ、
「今度ア、伊三郎の田を入れるとて、わざと、あんな青大将のようにうね/\とうねらしてしまったんだぞ。」
 こう云い出した。実際、今度は、伊三郎の田が、どいつも、こいつもひっかゝっていた。
「停留場を、あしこの田のところへ、権現の方のを換えて持って行くというじゃないか?」
「だいぶ重役に賄賂を掴ましたんじゃ。あの熊さんを使うてやったんじゃよ。――熊の奴この夏からさい/\K市までのこ/\と出かけて行きよったじゃないか。」
「そうか、そんなことをやりくさったんか。道理で、此頃、熊と伊三郎がちょん/\やっとると思いよった。くそッ!」
 敷地にはずれた連中は、ぐゎい/\騒ぎ出した。敷地に這入るか、這入らないかは、彼等の家がつぶれるか、つぶれないかに関係していた。真剣に、目を血ばしらすのは当然だった。
「そんじゃ、こっちも、みんなで、ほかの重役のとこへ膝詰談判に行こうじゃないか。伊三郎が、そんなことをしくさるんなら、こっちだって、黙って引っこんでは居れんぞ。」
「うむ、そうだ、そうだ。黙って泣寝入りは出来やせん!」
 K市へ出かけて行った連中は埒《らち》があかなかった。
「やっぱし、人間のずるい、金の融通のきく奴が、うまいことをしくさるんだ。」僕は、それを見ながら、この感じを深くした。裏でこそ/\やる人間が、なんでもうまいことをしているんだ。馬鹿正直な奴が、いつでも結局、一番の大馬鹿なんだ。
 ある晩、わい/\騒いでいる久助の女房は、伊三郎の家に火をつけた。が、それは、火事とならずにもみ消された。小作人も、はずされた仲間の方についた。伊三郎の田は、六月の植えつけから、その三分の二は耕されず雑草がはびこるまゝに荒らされだした。
 だが、それから間もなくだった。
「や、大変なこっちゃ。これゃ、何もかもわや[#「わや」に傍点]じゃ!」
 親爺はぴっくりして、鶏の糞だらけの鶏小屋の前で腰をぬかしていた。
「どうしたんじゃ? どうしたんじゃ?」
「これゃ、わや[#「わや」に傍点]じゃ。 何もかもすっかりわやじゃ。来てくれい! どうしよう? どうしよう?」
 親爺は腰がぬけて脚が立たなかった。彼が鶏に餌をやろうとしていた時、KS電鉄の重役が贈賄罪で起訴収容され、電車は、おじゃんになってしまったことを、村の者が知らしてきたのである。
「何だ、そんなことで腰をぬかすなんて!」
 僕は立つことの出来ない親爺を見ながらなぜか、清々とするものを感じるのだった。
 村は、歓喜の頂上にある者も、憤慨せる者も、口惜しがっている者も、すべてが悉く高い崖の上から、深い谷間の底へ突き落されてしまった。喜ぶことはやさしかった。高い所から深いドン底へ墜落するのは何というつらいことだろう!
 荒された土地には依然として雑草が繁茂し、秋には、草は枯れ、そこは灰色に朽ち腐った。

      一〇

 やがて親爺が死んだ。
 慶応年間に村で生れた親爺は、一生涯麦飯を食って、栄養不良になることも、早く年を取り、もうろく[#「もうろく」に傍点]することもかまわずに、たゞ、いくらかの土地を自分のものとし、財産を作って、子供に残してやろうと、そればかりを考えていた。
 死ぬ前には、親爺はぼれ[#「ぼれ」に傍点]ていた。若い時分、野良で過激に酷使しすぎた肉体は、年がよるに従って云うことをきかなくなった。
 親爺は、肥桶《こえおけ》をかついだり、牛を使ったりするのを、如何にも物憂げに、困難げにしだしていた。米俵をかつぐのは、もう出来ないことだった。晩には彼は眠られなかった。四肢がけだるく、腰は激しい疼《うず》くような痛みを覚えた。昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。それが、今は、不思議に身体全体が、もの憂く、悩ましく、ちょっと立上るのにさえ、重々しく、厄介に感じられた。
 夜があけると、彼は、鍬をかついで、よぼ/\と荒らされ
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