土鼠と落盤
黒島傳治

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鉱山《やま》の長屋

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)突っぱって手ご[#「手ご」に傍点]をした。

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)かさ/\と生い茂って
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

×:伏せ字
(例)彼の××××、
−−

      一

 くすれたような鉱山《やま》の長屋が、C川の両側に、細長く、幾すじも這っている。
 製煉所の銅煙は、禿げ山の山腹の太《ふと》短かい二本の煙突から低く街に這いおりて、靄のように長屋を襲った。いがらっぽいその煙にあうと、犬もはげしく、くしゃみをした。そこは、雨が降ると、草花も作物も枯れてしまった。雨は落ちて来しなに、空中の有毒瓦斯を溶解して来る。
 長屋の背後の二すじの連山には、茅ばかりが、かさ/\と生い茂って、昔の巨大な松の樹は、虫歯のように立ったまゝ点々と朽ちていた。
 灰色の空が、その上から低く、陰鬱に蔽いかぶさっていた。
 山は、C川の上で、二ツが一ツに合《がっ》し、遙かに遠く、すんだ御料林に連っていた。そこは、何百年間、運搬に困るので、樹を伐ったことがなかった。路も分らなかった。川の少し下《しも》の方には、衛兵所のような門鑑があった。
 そこから西へ、約三里の山路をトロッコがS町へ通じている。
 住民は、天然の地勢によって山間に閉めこまれているのみならず、トロッコ路《みち》へ出るには、必ず、巡査上りの門鑑に声をかけなければならなかった。その上、門鑑から外へ出て行くことは、上から睨まれるもとだった。
 門鑑は、外から這入って来る者に対して、歩哨のように、一々、それを誰何《すいか》した。
 昔、横井なに右衛門とかいう下《しも》の村のはしっこい爺さんが、始めてここの鉱山を採掘した。それ以来、彼等の祖先は、坑夫になった。――井村は、それをきいていた。子も、孫も、その孫も、幾年代か鉱毒に肉体を侵蝕されてきた。荒っぽい、活気のある男が、いつか、蒼白に坑夫病《よろけ》た。そして、くたばった。
 三代目の横井何太郎が、M――鉱業株式会社へ鉱山を売りこみ、自身は、重役になって東京へ去っても、彼等は、ここから動くことができなかった。丁度《ちょうど》鉱山《やま》と一緒にM――へ売り渡されたものゝ如く。
 物価は、鰻のぼりにのぼった。新しい巨大な器械が据えつけられた。選鉱場にも、製煉所にも。又、坑内にも。そして、銅は高価の絶頂にあった。彼等は、祖父の時代と同様に、黙々として居残り仕事をつゞけていた。
 大正×年九月、A鉱山では、四千名の坑夫が罷業を決行した。女房たちは群をなして、遠く、東京のT男爵邸前に押しよせた。K鉱山でもJ鉱山でも、卑屈にペコ/\頭を下げることをやめて、坑夫は、タガネと槌を鉱山主に向って振りあげた。アメリカでも、イギリスでも坑夫は蹶起《けっき》しつゝあった。全世界に於て、プロレタリアートが、両手を合わすことをやめて、それを拳《こぶし》に握り締めだした。そういう頃だった。
 M――鉱業株式会社のO鉱山にもストライキが勃発《ぼっぱつ》した。
 その頃から、資本家は、労働者を、牛のように、「ボ」とか、「アセ」「ヒカエ」の符号で怒鳴りつける訳にゃ行かなくなった。
 M――も、O鉱山、S鉱山、J鉱山では、昔通りのべラ棒なソロバンが取れなくなってしまった。
 しかし、こゝの鉱山だけは、いつまでも、世界の動きから取残された。重役はこの山間に閉めこまれた、温順な家畜を利用することを忘れなかった。ほかで儲からなくなったその分を、この山間に孤立した鉱山から浮すことを考えた。
 坑夫の門鑑出入がやかましいのは、Mの狡猾な政策から来ていた。
 しかし、いくらやかましく云っても、鉱山だけの生活に満足出来ない者が当然出て来る。その者は、夜ぬけをして都会へ出た。だが、彼等を待っているのは、頭をはねる親方が、稼ぎを捲き上げてしまう、工場の指定宿だった。うまいところがない。転々とする。持って行った一枚の着物まで叩き売ってしまう。そして再び帰って来た。
 そういう者が、毎年二人や三人はあった。井村も流行唄をはやらした一人になった。そういう者が、新しい知識や、新しい話を持って来た。
 女房が選鉱場のベルトに捲かれて、頭と腕をちぎられてしまった。それからヤケを起して方々をとびまわった。武松はO鉱山で普通一ン日三円から四円出している。それを見てきた。彼等は、自分達との差が、あまりにひどいのに眼を丸くした。
「KやAにゃ、すげえ奴が居るぞ。」
 武松は、この鉱山ではすごい方だった。その彼が、たまげた話し方をした。
「役員なんぞ、糞喰えだ。いけすかねえ野郎は、かまうこたない、出刃庖丁で頸をちょんぎったるんだ。それで、そしてその切れたあとへ犬の頸を持ってきてすげかえるんだ。今までえらそうにぶつ/\云っていた奴が、ワン/\吠えることだけしか出来ねえんだ。へへ、役員の野郎、犬になりやがって、ざま見やがれ!――あいつら、もと/\犬だからね。」
「ふむゝ。」
 彼等は、珍しがった。作り話と知りつゝ引きつけられた。
「俺等だって、賃銀を上げろ、上げなきゃ、畜生! 熔鉱炉を冷やしてかち/\にしてやるなんざ、なんでもねえこったからな。」
「うむ、/\。」
「いくら、鉱石が地の底で呻っとったってさ、俺達が掘り出さなきゃ、一文にもなりゃすめえ。」
 だが、そういう者は、よほどうまく、かげにまわって喋らないと、役員に見つかり次第、早速、山から叩き出されてしまう。

      二

 圧搾空気の鉄管にくゝりつけた電球が薄ぼんやりと漆黒《しっこく》の坑内を照している。
 地下八百尺の坑道を占領している湿っぽい闇は、あらゆる光を吸い尽した。電燈から五六歩離れると、もう、全く、何物も見分けられない。土と、かびの臭いに満ちた空気の流動がかすかに分る。鉱車《トロ》は、地底に這っている二本のレールを伝って、きし/\軋りながら移動した。
 窮屈な坑道の荒い岩の肌から水滴《しずく》がしたゝり落ちている。市三は、刀で斬られるように頸すじを脅かされつゝ奥へ進んだ。彼は親爺に代って運搬夫になった。そして、細い、たゆむような腕で鉱車《トロ》を押した。
 八番坑のその奥には、土鼠《もぐら》のように、地底をなお奥深く掘進んでいる井村がいた。圧搾空気で廻転する鑿岩機《さくがんき》のブルブルッという爆音が遠くからかすかにひゞいて来る。その手前には、モンペイをはき、髪をくる/\巻きにした女達が掘りおこされた鉱石を合品《カッチャ》で、片口《ヤネハカリ》へかきこみ、両脚を踏ンばって、鉱車《トロ》へ投げこんでいた。乳のあたり、腰から太股のあたりが、カンテラの魔のような仄かな光に揺れて闇の中に浮び上っている。
 そこには、女房や、娘や、婆さんがいた。市三より、三ツ年上のタエという娘もいた。
 タエは、鉱車《トロ》が軽いように、わざと少ししか鉱石を入れなかった。
「もっと入れても大丈夫だ。」
「そんな、やせがまんは張らんもんよ。」
「それ/\動かんじゃないの。」
 そして、鉱車《トロ》を脇から突っぱって手ご[#「手ご」に傍点]をした。
 鉱車は百三十貫ばかりの重量がある。手のさきや、肩で一寸押したぐらいではびくともしない。全身の力をこめて、うんと枕木を踏んばり、それで前へ押さなきゃならない。しかも力をゆるめるとすぐ止る。で、端から端まで、――女達のいるところから、ケージのおりて来るところまで、――枕木を踏んばり通さなきゃならなかった。
 彼は、まだ十五歳だった。時々、こんな、子供のなり[#「なり」に傍点]をして働いている自分をいとおしく思った。涙ぐんだ。親爺は六番坑で竪坑《たてこう》から落ちて来た坑木に脚をやられた。そして、三本脚の松ツァンと呼ばれる不具者になってしまった。
「俺ら、トロ押せねえだ。」市三は、坑内へおりて来るまで、自分の細い腕を危ぶんだ。
「……。」親爺は、燻った四畳半で、足のない脚だけ布団にかくして、悲しげな顔をしていた。
「トロ、なか/\重いだろう。」
「誰れも働く者がなきゃ、お芳さんのようにこの長屋を追い出されるんだ。追い出されたら、ドコへ行くべ。」
 息子は、親爺の眼に光ったものを見た。
 ――米も安いし、雑用もかゝらねえし、それに家賃は只だから、これで東京あたりの一円五十銭も二円もにかけ合うべ。――
 僅か七十銭の賃銀を、親じはこんな考え方で慰めていた。その只の長屋も、家に働く者がなくなれば追い立てをくうのだ。
 市三は、どれだけ、うら/\と太陽が照っている坑外《おか》で寝ころんだり、はねまわったりしたいと思ったかしれない。金を出さずに只でいくらでも得られる太陽の光さえ、彼は、滅多に見たことがなかった。太陽の値打は、坑内へ這入って、始めて、それにどれだけの値打があるか分ってきた。今は、蟻のような孔だらけの巨大な山の底にいる。昇降機《ケージ》がおりて来る竪坑を中心にして、地下百尺ごとに、横坑を穿ち、四百尺から五百尺、六百尺、七百尺とだん/\下へ下へ鉱脈を掘りつくし、現在、八百尺の地底で作業をつゞけている。坑外《おか》へ出るだけでも、八百尺をケージで昇り、――それは三越の六倍半だ――それから一町の広い横坑を歩かねばならない。
 井村は女達の奥で鑿岩機を操っていた。タガネが、岩の肌にめりこんで孔を穿って行くに従って、石の粉末が、空気に吹き出されて、そこら中いっぱいにほこりが立った。井村は鼻から口を手拭いでしばり、眼鏡をかけていた。黄色ッぽい長い湿った石のほこりは、長くのばした髪や、眉、まつげにいっぱいまぶれついていた。
 汚れた一枚のシャツの背には、地図のように汗がにじんでいた。そして、その地図の区域は次第に拡大した。
「さ、這入ったよ。」
 タエは、鉱車《トロ》を押し出す手ご[#「手ご」に傍点]をした。
 それは六分目ほどしか這入っていなかった。市三は、枕木を踏んばりだした。背後には、井村が、薄暗いカンテラの光の中に鑿岩機をはずし、ハッパ袋をあけていた。
 井村は、飴ン棒のようなハッパを横にくわえ、ミチビを雷管にさしこむと、それをくわえているハッパにさしこんだ。
「おい、おい、女《にょ》ゴ衆、ドンと行くぞ。」
「タエの尻さ、大穴もう一ツあけるべ。」
 婆さんがうしろで冷かしていた。
 市三は、岩の破れ目から水滴《しずく》が雨だれのようにしたゝっているところを全力で通りぬけた。
 あとから女達が闇の中を早足に追いついて来た。暫らく、市三の脇から鉱車《トロ》を押す手ごをしたが、やがて、左側の支坑へそれてしまった。
 竪坑の電球が、茶色に薄ぼんやりと、向うに見えた。そして、四五人の人声が伝って来た。
「誰れだい、たったこれっぽちしか入れてねえんは。」市三が、さきに押して来てあった鉱車《トロ》を指さして、役員の阿見が、まつ毛の濃い奥目で、そこら中を睨めまわしていた。「いくら少ないとてケージは、やっぱし一ツ分占領するんだぞ。」
 ほかの者は、互いに顔を見合っていた。市三は、さきの鉱車《トロ》よりも、もっと這入り方が少ない今度のやつを役員の眼前にさらすのは、罪をあばかれるように辛かった。鉱車《トロ》ごと、あとへ引っかえしたかった。しかし、うしろからは、導火線に点火し終った井村がカンテラをさげ、早足に、しかもゆったりとやって来た。――そのカンテラがチラ/\見えた。それは、途中で、支坑へそれた。
 市三は、ケージから四五間も手前で鉱車《トロ》を止めた。そして、きまり悪るげにおど/\していた。
「あンちき生、課長や、山長さんにゃおべっかばっかしこけやがって!」
 阿見がケージをたゞ一人で占領して上へあがると、びっこの爺さんが笑い出した。
 市三は、罪人のようにいつまでも暗いところで小さく悄《しょ》げこんでいた。
「何だい、おじ/\すんなよ。」
「うむ。」
「あいつはえらばってみたいんだ。何だい、あんな奴が。」
 
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング