だりすると大変だぜ。俺等ちゃんと用意しとるんだ。」健二はわざと大仰《おおぎょう》に云った。それで相手の反応を見て、どういうつもりか推し測ろうとする考えだった。
 宇一は、顔に、直接、健二の視線を浴びるのをさけた。暫らくして彼は変に陰気な眼つきで健二の顔をうかゞいながら、
「お上に手むかいしちゃ、却ってこっちの為になるまいことい。」と、半ば呟くように云った。
 地主は小作料の代りに、今、相場が高くって、百姓の生活を支える唯一の手だてになっている豚を差押えようとしていた。それに対して、百姓達は押えに来た際、豚を柵から出して野に放とう、そうして持主を分らなくしよう。こう会合できめたのであった。会の時には、一人の反対者もなかった。それがあとになって、自分の利益や、地主との個人的関係などから寝返りを打とうとする者が二三出て来たのであった。
 宇一の家には、麦が穂をはらんで伸びている自分の田畑があった。また、よく肥大した種のいゝ豚を二十頭ばかり持っていた。豚を放てば自分の畠を荒される患《うれ》いがあった。いゝ豚がよその悪い種と換るのも惜しい。それに彼は、いくらか小金を溜めて、一割五分の利子で村の誰れ彼れに貸付けたりしていた。ついすると、小作料を差押えるにもそれが無いかも知れない小作人とは、彼は類を異にしていた。けれども、一家が揃って慾ばりで、宇一はなお金を溜るために健二などゝ一緒に去年まで町へ醤油屋稼ぎに行っていた。
 村の小作人達は、百姓だけでは生計が立たなかった。で、田畑は年寄りや、女達が作ることにして、若い者は、たいてい町へ稼ぎに出ていた。健二もその一人だったのである。彼は三年ほど前から町へ働きに出、家では、親爺や妹が彼の持って帰る金をあてにして待っていた。
 醤油屋は村の田畑殆んどすべての地主でもあった。そして、町では、彼の傭主だった。
 昨年、暮れのことである。
 火を入れた二番口の醤油を溜桶に汲んで大桶《おおこが》へかついでいると、事務所から給仕が健二を呼びに来た。腕にかゝった醤油を前掛でこすり/\事務所へ行くと、杜氏《とうじ》が、都合で主人から暇が出た、――突然、そういうことを彼に告げた。何か仔細がありそうだった。
「どうしたんですか?」
「君の家の方へ帰って見ればすぐ分るそうだが……。」杜氏は人のいゝ笑いを浮べて、「親方は別に説明してやることはいらんと怒りよったが、なんでも、地子のことでごた/\しとるらしいぜ。」
「どういう具合になっとるんです?」
 健二は顔を前に突き出した。――今年は不作だったので地子を負けて貰おう。取り入れがすんですぐ、その話があったのは彼も知っていた。それから、かなりごた/\していた。が、話がどうきまったか、彼はまだ知らなかった。
 杜氏は、話す調子だけは割合おだやかだった。彼は、
「お主の賃銀もその話が片づいてから渡すものは渡すそうじゃ、まあ、それまでざいへ去《い》んで休んどって貰えやえゝ。」と云った。
「そいつは併し困るんだがなあ。賃銀だけは貰って行かなくちゃ!」
 既に月の二十五日だった。暮れの節季には金がいるから十二月は日を詰めて働いたのであった。それに、前月分も半分は向うの都合でよこしていなかった。今、一文も渡さずに放り出すのは、あまりに悪辣である。健二は暫らく杜氏と押問答をしたが、結局杜氏の云うがまゝになって、男部屋へ引き下った。そこでふだん着や、襦袢や足袋など散らかっているものを集めて、信玄袋に入れ、帰る仕度をした。
「おや、君も暇が出たんか?」宇一が手を拭き乍《なが》ら這入って来た。
「うむ。……君もか?」
「……やちもないことになった。賃銀も呉れやせずじゃないか。……誰れが争議なんどやらかしたんかな。」彼は、既にその時から、傭主を憎むよりは、むしろ争議をやった仲間を恨んでいた。
「こんなずるい手段で来ると知っとりゃ、前から用意をしとくんじゃったのに……。」健二は自分の迂闊さを口惜しがった。
 同じ村から来ている二三の連中が、暫らくして、狐につまゝれたように、間の抜けた顔をして這入って来た。
「おい、お主等、このまゝおとなしく引き上げるつもりかい! 馬鹿々々しい!」村に妻と子供とを置いてある留吉が云った。「皆な揃うて大将のとこへ押しかけてやろうぜ。こんな不意打を食わせるなんて、どこにあるもんか!」
 彼等は、腹癒せに戸棚に下駄を投げつけたり、障子の桟を武骨な手でへし折ったりした。この秋から、初めて、十六で働きにやって来た、京吉という若者は、部屋の隅で、目をこすって、鼻をすゝり上げていた。彼の母親は寡婦で、唯一人、村で息子を待っているのであった。
「誰れが争議なんかおっぱじめやがったんかな。どうせ取られる地子は取られるんだ。」宇一は、勝手にぶつ/\こぼした。「こんなことをしちゃ却って、
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