込みそうだった。しかし、夢中に馳せまわっていながら、崖端に近づくと、一歩か二歩のところで、安全な方へ引っかえした。
 三人は、思わず驚きの眼を見はって、野の豚群を眺め入った。
 ところが、暫らくするうちに、二人の元気な男は、怒りに頸すじを赤くした。そして腕をぶる/\振わせだした。豚が野に放たれて呻き騒いでいる理由が分ったのであった。

 三十分程たった頃、二人は、上衣を取り、ワイシャツ一つになって、片手に棒を握って、豚群の中へ馳こんでいた。頻りに何か叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]した。尻を殴られた豚は悲鳴を上げ、野良を気狂いのように跳ねまわった。
 二人は、初めのうちは、豚を小屋に追いかえそうと努めているようだった。しかし豚は棒を持った男が近づいて来ると、それまでおとなしくしていたやつまでが、急に頭を無器用に振ってはねとびだした。二人はいつの間にか腹立て怒って大切なズボンやワイシャツが汗と土で汚れるのも忘れて、無暗に豚をぶん殴りだした。
 豚は呻き騒ぎながら、彼等が追いかえそうと努めているのとは反対に、小屋から遠い野良の方へ猛獣の行軍のようになだれよった。
 と、向うの麦畑に近い方でも誰れかが棒を振って、寄せて来る豚を追いかえしていた。
「叱ッ、これゃ! 麦を荒らしちゃいかんが!」
 それは、自分の畑を守っている宇一だった。
「叱ッ、これゃ、あっちへ行けい!」
 どれもこれも自分の豚ではなかったので彼は力いっぱいに、やって来るやつをぶん殴った。豚は彼の猛打を浴びて、またそこからワイシャツの方へ引っかえした。
 裏切った者があるにもかゝわらず、放たれた豚の数は夥《おびただ》しいものだった。暫らくするうちに、二人のワイシャツはへと/\に疲れ、棒を捨てて、首をぐったり垂れてしまった。……
「そら、爺さんがやって来たぜ。」
 やっと丘の上へ引っかえして、雑草の間で一と息ついていた留吉が老執達吏を見つけた。
「どれ、どこに?」谷間ばかりを見下していた健二がきいた。
「そらその下だ。」留吉は小屋の脇を指さした。
 痩せて、骸骨のような、そして険しい目つきの爺さんが、山高をアミダにかむり、片手に竹の棒を握って崖の下へやって来た。
「おい、こらッ!」
 大きな腹をなげ出して横たわっている牝豚を見つけて、彼は棒でゴツ/\尻を突ついた。
 豚は「ウウ」と、唸って起き上ろうともしなかった。
「おい、こら!」
「ウ、ウウ。」牝豚はやはり寝ていた。
「おい、こら!」爺さんは、又、棒を動かした。
 健二と留吉は草にかくれてくっ/\笑った。
 一日かゝって、三人の役人は、結局、柵に固く栓をして、初めから豚を出さなかった、二三の小屋にのみ封印して、疲れ切って帰って行った。彼等は、それが自分達に降った裏切者の小屋であるとは気づく余裕がなかった。同様に手むかいをする百姓のだと思って、故意に厳重に処置をした。

     四

 二週間ほどたって、或る日、健二が残飯桶をかついで丘の坂路を登っていると、彼の足音を聞きつけて、封印を附けられた宇一の小屋から二十匹ばかりが急に揃って、割れるような呻きを発して、騒ぎだした。饉《う》え渇して一時に餌を求めている呻きだった。
 彼が桶を置いて小屋に這入って見ると、裏切者の豚は、糞で真黒に汚れ、痩せこけて、眼をうろ/\させながら這っていた。
 どうせ地主に取られることに思って、宇一は餌もやらなければ、ろくに世話もしなかったのである。
 豚は、必死に前肢を柵にかけ、健二をめがけて、とびつくようにがつ/\して何か食物を求めた。小屋のわめきは二三丁さきの村にまで溢れて行って、人々の耳を打った。……
 それから一週間ほど、それ等の汚れた豚は昼夜わめきつづけていたが、ついに、一ツ一ツばた/\斃れだした。
 野に放たれ騒いだ豚は、今、柵の中でおとなしく餌を食っている。
 主謀者がその後どうなったか?
 いや、彼等は、役人に反抗したが、結局、どうにもせられなかった。
 彼等は、やったゞけ、やり得だったのである。
[#地から1字上げ](大正十五年十月)



底本:「筑摩現代文学大系 38 小林多喜二 黒島伝治 徳永直集」筑摩書房
   1978(昭和53)年12月20日初版第1刷発行
入力:大野裕
校正:はやしだかずこ
2000年7月3日公開
2006年3月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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