もないことはない。しかし、大部分の百姓に、それがまだ分っていない。
俺達は、何故貧乏するか。
どうすれば、俺達は、貧乏から解放されるか。
この二つを百姓に十分了解させることが、なによりも必要だ。それが分れば、彼等は誰れに一票を投ずべきかを、ひとりでゞ自覚するのである。
演説会
民政派の演説会には、必ず、政友会の悪口を並べる。政友会の演説会には、反対に民政党の悪口をたゝく。そういう時には、片岡直温のヘマ[#「ヘマ」に傍点]振りまで引っぱり出して猛烈に攻撃する。
演説会とは、反対派攻撃会である。
そこへ行くと、無産政党の演説会は、たいていどの演説会でも、既成政党を攻撃はするが、その外、自分の党は何をするか、を必ず説く。そこは、徹頭徹尾、攻撃に終始する既成政党の演説会に比して、よほど整い、つじつまが会っている。
しかし、演説の言葉、形式が、百姓には、どうも難解である。研究会で、理論闘争をやるほどのものではないにしろ、なお、その臭味がある。そこで、百姓は、十分その意味を了解することが出来ない。
「吾々、無産階級は……」と云う。既に、それが、一寸難解である。「我々貧乏人は……」と云う。それでも分らないことがある。
聴衆の中には、一坪の田畑も所有しない純小作人もある。が、五段歩ほど田を持っている自作農もいる。又、一反歩ほど持っている者もいる。そこで「吾々貧乏人は……」と云われても、五反歩の自作農は、自分にはあまり関係していないことを喋っているように思ったりするのである。
話は、十分に砕いて、百姓によく分るように、百姓の身に直接響いて行くように、工夫しなければならない。徒に、むつかしい文句をひねりまわしたところで、何等役に立つものではない。
何故、俺等は貧乏するか。
どうすれば貧乏から解放されるか。
それを十分具体的にのみこませた上でなければ、百姓は立ち上って来ないのである。
無産政党
いまだに、無産政党とか、労農党とかいうと危険な理窟ばかりを並べたて、遊んで食って行く不良分子の集りとでも思っている百姓がだいぶある。
彼等には、既成政党とか、無産政党とか、云ったゞけでは、それがどういうものであるか分らない。政友会とか、憲政会とか云えば彼等には分る。だが、既成と、無産になると一寸分りにくい。
社会主義と云えば、彼等は、毛虫のように思
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