怺えていた泣けそうなものが、一時に顔面に溢れて来るのをどうすることも出来なかった。……
「おい、病院へ帰ろう。」
吉田が云った。
「うむ。」
小村の声はめそ/\していた。それに反撥するように、吉田は、
「あの橋のところまで馳せっくらべしよう。」
「うむ。」小村は相変らずの声を出した。
「さあ、一、二、三ン!」
吉田がさきになって、二人は、一町ほど走ったが、橋にまで、まだ半分も行かないうちに、気ぬけがしてやめてしまった。
二人は重い足を引きずって病院へ帰った。
五六日間、すべての勤務を二年兵にまかせきって、兵舎でぐう/\寝ていた。
四
「おい、兎狩りに行こうか。」
こう云ったのは吉田であった。
「このあたりに、一体、兎がいるんかい。」
小村は鼻の上まで毛布をかぶって寝ていた。
「居《お》るんだ。……そら、つい、そこにちょか/\してるんだ。」
吉田は窓の外を指さした。彼は、さっきから、腹這いになって、二重硝子の窓から、向うの丘の方を見ていたのであった。丘は起伏して、ずっと彼方《あちら》の山にまで連なっていた。丘には処々|草叢《くさむら》があり、灌木の群があり、小石を一箇所へ寄せ集めた堆《うずたか》があった。それらは、今、雪に蔽われて、一面に白く見境いがつかなくなっていた。
なんでも兎は、草叢があったあたりからちょか/\走り出して来ては、雪の中へ消え、暫らくすると、また、他の場所からちょか/\と出て来た。その大きな耳がまず第一に眼についた。でも、よほど気をつけていないと雪のようで見分けがつかなかった。
「そら、出て来た。」吉田が小声で叫んだ。「ぴん/\はねてるんだ。」
「どれ?……」小村は、のっそり起上って窓のところに来た。「見えやしないじゃないか。」
「よく見ろ、はねてるんだ。……そら、あの石を積み重ねてある方へ走ってるんだ。長い耳が見えるだろう。」
二人とも、寝ることにはあきていた。とは云え、勤務は阿呆らしくって、真面目にやる気になれなかった。帰還した同年兵は、今頃、敦賀へついているだろうか。すぐ満期になって家へ帰れるのだ! 二人はそんなことばかりを思っていた。シベリアへ来るため、乗船した前夜、敦賀で一泊した。その晩のことを思い出したりした。その港町がなつかしく如何にもかゞやかしく思い出された。何年間、海を見ないことか! 二人は、シベリアへ来てから、もう三年以上、いや五年にもなるような気がしていた。どうしてシベリアへ兵隊をよこして頑張ったりする必要があるのだろう。兵卒は、露西亜人を殺したり、露西亜人に殺されたりしているのである。シベリアへ兵隊を出すことさえ始めなければ、自分達だって、三年兵にもなって、こんなところに引き止められていやしないのだ。
二人は、これまで、あまりに真面目で、おとなしかった自分達のことを悔いていた。出たらめに、勝手気まゝに振るまってやらなければ損だ。これからさき、一年間を、自分の好きなようにして暮してやろう。そう考えていた。
――吉田は、防寒服を着け、弾丸を込めた銃を握って兵舎から走り出た。
「おい、兎をうつのに実弾を使ってもいゝのかい。」
小村も、吉田がするように、防寒具を着けながら、危ぶんだ。
「かまうもんか!」
「ブ(上等看護長のこと)が怒りゃせんかしら……」
銃と実弾とは病院にも配給されていたが、それは、非常時以外には使うことを禁ぜられていた。非常時というのは、つまり、敵の襲撃を受けたような場合を指すのであった。
吉田はかまわず出て行った。小村も、あとでなんとかなる、――そんな気がして、同様に銃を持って吉田のあとからついて行った。
吉田は院庭の柵をとび越して二三十歩行くなり、立止まって引金《ひきがね》を引いた。
彼は内地でたび/\鹿狩に行ったことがあった。猟銃をうつことにはなれていた。歩兵銃で射的をうつには、落ちついて、ゆっくりねらいをきめてから発射するのだが、猟にはそういう暇《ひま》がなかった。相手が命がけで逃走している動物である。突差にねらいをきめて、うたなければならない。彼は、銃を掌《て》の上にのせるとすぐ発射することになれていた――それで十分的中していた。
戦闘の時と同じような銃声がしたかと思うと、兎は一間ほどの高さに、空に弧を描いて向うへとんだ。たしかに手ごたえがあった。
「やった! やった!」
吉田は、銃をさげ、うしろの小村に一寸目くばせして、前へ馳せて行った。
そこには、兎が臓腑《ぞうふ》を出し、雪を血に紅く染めて小児のように横たわっていた。
「俺《おれ》だってうてるよ。どっか、もう一つ出て来ないかな。」
小村が負けぬ気を出した。
「居るよ、二三匹も見えていたんだ。」
二人は、丘を登り、谷へ下り、それから次の丘へ登って行った。
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