買いようが少ないとか、粗末なものを買うとかで、他人に笑われやしないかと心配していた。金を払うのに古い一円札ばかり十円出すのだったら躊躇するぐらいだ。彼女は番頭に黙って借りて帰ったモスリンと絣を、どう云ってその訳を話していゝか思案している。心を傷めている。――彼はいつのまにかお里の心持になっていた。――番頭が、三反持ってかえりながら、二反しか持って来ていない、と思うかもしれない。いえ、たしかに二反だったんです。と彼女は云う。すると番頭は、ほうそうですか、でも私は、三反持ちかえりのところをこの眼で見たんですが、と云う。で証拠に、ここにちゃんとつけ止めであるんですが……。お里はそういう場合を想像してびく/\している。
 彼女はびく/\しながら、まだ反物を風呂敷から出してはいない。そっとしのび足で店に這入って、片隅の小僧が居る方へ行き、他人が見ている柄を傍から見る。見ているようにしながら、なるべく目立たぬように、番頭に金を払う機会が来るのに注意している。丸文字屋の内儀《おかみ》は邪推深い、剛慾な女だ。番頭や小僧から買うよりも、内儀から買う方が高い、これは、村中に知れ渡っていることである。その内儀が火鉢の傍に坐りこんでじろ/\番頭や小僧の方を見ている。金をごま化しやしないか見ているのだ。
 番頭のところには五六人も客が立てかけて値切ったり、布地をたしかめたりしている。番頭に買うと安いのだ。
 お里は待っても待っても機会が来ない。彼女は風呂敷に包んだ反物と蟇口《がまぐち》の金とを胸算用で、丁度あるかどうかやってみるが頭がぐら/\して分らなくなる。……
 清吉は、こういう想像を走らせながら、こりゃ本当にあることかもしれないぞ、或は、今、現に妻がこうやっているかもしれない。と一方で考える。
 お里がびく/\しながら、番頭の方へ近づくと、
「あ、そうですか。」番頭は何気なく、書きとめた帳を出して見る。彼は、落ちつかない。そそくさしている。
「△円△△銭になります。」
「そうでござんすか。」
 お里は金を出す。無断で借りて帰った分のことをどうしようかと心で迷う。今云い出すと却って内儀に邪推されやしないだろうか?……
 番頭は金を受取ってツリ銭を出す。お里は嵩《かさ》ばった風呂敷包みを気にしながら、立っている。火鉢の傍に坐りこんでいる内儀の眼がじろりと光る。お里はぐら/\地が動きだしたような気がする。
 番頭は算盤をはじき直している。彼は受領書に印を捺して持って来る。
「何と何です?」
 不意に、内儀の癇高い声がひびく。彼女は受領書と風呂敷包を見っぱっている。
 番頭は不意打ちを喰ってぼんやり立っている。
「何にも取っとりゃしませんぞな! 何にも……」
 お里が俯向《うつむ》いて、困惑しながらこう云っている……

      五

 清吉は胸がドキリとした。
「何でもない。下らないこった! 神経衰弱だ何でもありゃしない!」
 彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はなんだか彼の脳裏にこびりついてきた。
 やがて、門の方で、ぱきぱきした下駄の音がした。
「帰ったな。」と清吉は考えた。
 彼は一刻も早く妻の顔を見たかった。彼女の顔色によって、丸文字屋でどんなことが起ったか分るからだった。さきの想像が真実かも知れないと云う懸念に彼はおびやかされた。
 彼女は何か事があると、表情を失って、顔の皮膚が厚く凝り固まったように見えるのであった。眼は真直に前をみつめて、左右のことには気づかない調子になる。
「もう這入って来そうな時分だ。」
 妻が座敷へ上って来るのがおそいので彼は訝《いぶか》った。
 下駄の音は、門をはいってから、忍び足をしているのか、低くなっていた。彼がじいっと耳を澄ますと、納屋《なや》で蓆《むしろ》や空俵《あきたわら》を置き換えている気配がした。まもなく、お里が喉頭《のどもと》に溜った痰を切るために「ウン」と云って、それから、小便をしているのが聞えて来た。
「隠したな。」と清吉は心で呟いた。
 妻は、やはり反物をかえさずに持って帰って、納屋の蓆か空俵の下に隠したんだな、と彼は思った。
 心臓の鼓動が激しくなった場合に妻の喉頭に痰が溜って、それを切ろうとして「ウン、ウン!」というのも彼はよく知っていた。
 彼は、もう妻の身振りも、顔色も、眼も見る必要がないと思った。すべてが分ったような気がした。が、それを彼女に知らせず、何気ない風をよそうていようとした。そして、彼女の仕出かしたことに対してはなるだけ無関心でいようとした。けれども彼の神経は、知らず/\、妻の一挙一動に引きつけられた。お里は小便をすますと、また納屋へ行って、こそ/\していた。そして、暫らくして台所へ這入って来た。
 清吉は眼をつむって、眠むった振りをしていた。妻は、風
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