それに正月の用意もしなければならない。
 自分の常着《つねぎ》も一枚、お里は、ひそかにそう思っていたが、残り少ない金を見てがっかりした。清吉は、失望している妻が可愛そうになった。
「それだけ皆な残さずに使ってもえいぜ。また二月にでもなれゃ、なんとか金が這入《はい》っ来《こ》んこともあるまい。」と云った。
「えゝ。……」
 声が曇って、彼女は下を向いたまゝ彼に顔を見せなかった。……
 正月二日の初売出しに、お里は、十円握って、村の呉服屋へ反物を買いに行った。子供達は母の帰りを待っていたが、まもなく友達がさそいに来たので、遊びに行ってしまった。清吉は床に就いて寝ていた。
 十時過ぎにお里が帰って来た。
「一寸、これだけ借りて来てみたん。」彼女は、清吉の枕頭《まくらもと》に来て、風呂敷包を拡げて見せた。
 染め絣《がすり》、モスリン、銘仙絣、肩掛、手袋、などがあった。
「これ、品の羽織にしてやろうと思うて……」
 と彼女は銘仙絣を取って清吉に見せた。
「うむ。」
「この縞は綿入れにしてやろうと思うて――」
「うむ。」
 お里は、よく物を見てから借りて来たのであろう反物を、再び彼の枕頭に拡げて縞柄を見たり、示指《さしゆび》と拇指《おやゆび》で布地《きれじ》をたしかめたりした。彼女は、彼の助言を得てから、何れにかはっきり買うものをきめようと思っているらしかった。しかし、清吉にはどういう物がいゝのか、どういう柄が流行しているか分らなかった。彼は上向《うえむき》に長々とねそべって眼をつむっていた。彼女はやがて金目を空《そら》で勘定しながら、反物を風呂敷に包んだ。
「友吉にゃ、何を買うてやるんだ。」清吉は眼をつむったまゝきいた。
「コール天の足袋。」
「そうか。」と、彼はつむっていた眼を開けた。
 妻は風呂敷包みを持って、寂しそうに再び出かけていた。
 もっと金を持たせると元気が出るんだが……そう思いながら、彼は眼をつむった。こゝ十日ほど、急に襲って来た寒さに負けて彼は弱っていた。軽い胸の病気に伴い易い神経衰弱にもかゝっていた。そして頭の中に不快なもがもが[#「もがもが」に傍点]が出来ていた。
「これ二反借って来たんは、丸文字屋《まるもんじや》にも知らんのじゃけど……」
 もう行ったことに思っていたお里が、また枕頭へやって来た。
「あの、品の肩掛けと、着物に羽織は借って戻ったんを番頭さんが書きとめたけんど、これ二反はあとから借ってつけとらんの。……」
「何だって?」
「この二反も、一と口ことわっとかにゃ悪いと思うて、待ちよったけれど、客が仰山《ぎょうさん》居って旦那も番頭も私なんどにゃ見向いても呉れんせに、黙って借って来たん……。」彼女は弁解するようにつゞけた。
「それでどうするんだ?」
「……」
「向うに知らんとて、黙って取りこむ訳にはいかんぜ。」
 お里は何か他のことを二言三言云った。その態度がひどくきまり悪るそうだった。清吉は、自分が云いすぎて悪いことをしたような気がした。
 お里は、善良な単純な女だった。悪智恵をかっても、彼女の方から逃げだしてしまうほどだった。その代り、妻が小心で正直すぎるために、清吉は、他人《ひと》から損をかけられたり儲けられる時に、儲けそこなって歯痒《はが》ゆく思ったりすることがたび/\あった。
 彼は二十歳前後には、人間は正直で、清廉であらねばならないと思っていた。が今では、そんなものは、何も役に立たないことを知っていた。正直や清廉では現在食って行くことも出来ないのを強く感じていた。けれでも彼は妻に不正をすゝめる気持にはなれなかった。

      四

 お里が家から出て行ったあとで、清吉は、眼をつむって妻の心持を想像してみた。彼には、お里が子供のように思われた。久しく同棲しているうちに、彼は、妻の感覚や感情の動き方が、隅々まで分るような気がした。
 妻が見せた二反は、彼は一寸見たきりだったが、如何にも子供がほしがりそうなものだった。彼女は、頻りに地質もよさそうだと、枕頭《まくらもと》で呟いたりしていた。子供がほしいものはまた彼女のほしいものだった。
 頭のもが[#「もが」に傍点]/\は、濃くなって、ぼんやりして来るかと思うと、また雲が散るように晴れて透き通って来たりした。彼はとりとめもないことを、想像していた。想像は、一とたび浮び上って来ると、彼をぐい/\引きつけて行った。それは、彼の意志でどうすることも出来なかった。彼はただ従僕のように、想像のあとについて、引きずりまわされた。
 想像は、いつのまにか、彼を丸文字屋の店へ引っぱって行っていた。丸文字屋へは、金持ちの客が沢山行っている。と、そこに、お里もしょんぼり立っていた。彼女は、歩くことまで他人《ひと》に気兼しておび/\していた。自分の金で品物を買うのに
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