いるのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。
私はいま、子供たちと一緒にお正月が来るのを待っている。お正月も過ぎてしまえば、たのしみとして待ったほどのことはなく、あまりにあツけなく過ぎて結局又一ツ年を取って老いて行くのだが、それでもなにか期待の持てる張りあいのある気持で、藁をそぐってかざり[#「かざり」に傍点]を組み、山へ登って、松を伐ってくる。七日には、なな草[#「なな草」に傍点]のあえもの、十五日には朝早くとんど[#「とんど」に傍点]をして茅の箸で小豆粥を食べる。それがすむと、豆撒きの節分を待つ。
四季折々の年中行事は、自然に接し、又その中へはいりこみ、そしてそれをたのしむ方法として、祖先が長い間かかってつくりあげたもので春夏秋冬を通じてそれは如何にもたくみに配置されているように思われる。
茶色の枯れたような冬の芽の中に既にいま頃から繚乱たる花が用意されているのだと思うと心が勇む気がする。そして春になると又春の行事が私たちを待っている。
底本:「黒島傳治全集 第三巻」筑摩書房
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