、今度は贅沢品でサヴエート同盟の資本主義的分子を釣った。
 さまざまな化粧品や、真珠のはまった金の耳輪や、蝶形のピンや、絹の靴下や、エナメル塗った踵《かかと》の高い靴や、――そういう嵩《かさ》ばらずに金目になる品々が、哈爾賓《ハルピン》から河航汽船に積まれて、松花江を下り、ラホスースから、今度は黒竜江を遡って黒河へ運ばれてきた。それらの品々は、一時、深沢洋行の倉庫の中で休息した。それからおもむろに、支那人の手によって、国境をくぐりぬけ、サヴエート国内へもぐりこんで行った。
 これは二重の意義を持っていた。密輸入につきものの暴利をむさぼるだけではなかった。
 肉色に透き通るような柔らかい絹の靴下やエナメルを塗った高い女の靴の踵は、ブルジョア時代の客間と、頽廃的《たいはいてき》なダンスと、寝醒めの悪い悪夢を呼び戻す。花から取った香水や、肌色のスメツ白粉や、小指のさきほどの大きさが六ルーブルに価する紅は、集団農場の組織や、労働者の学校や、突撃隊の活動などとは、およそ相反するものだ。それをわざわざ持ちこんで行くのは意味がなければならなかった。社会主義的社会の建設に恐怖しているブルジョア国家の手がそこに動いていた。警戒兵たちがいまいましがっている支那人の背後には、×××がいた。
 商品とかえられて持ちだされてきいたルーブル紙幣は、十二銭内外で、サヴエート国内でただ一カ所密売買をやっている、浦潮《ウラジオ》の朝鮮銀行へ吸収されて行った。
 鮮銀はさらに、カムチャッカ漁場の利権を買ってる漁業会社へ、一ルーブル十八銭――二十銭で売りつけた。
 そこで、漁業会社は、普通相場の五分の一にあたる安いルーブル紙幣を借区料としてサヴエート同盟へ納《おさ》めるのだった。そして、ぬくらんと懐を肥やして、威張っていた。
 密輸入者の背後には、その商品を提供する哈爾賓《ハルピン》のブルジョアが控えているばかりではなかった。資本主義××が控えていた。
 どうすれば、こういう側面からのサヴエート攻撃の根を断つことができるか!
 呉清輝は、警戒兵も居眠りを始める夜明け前の一と時を見計って郭進才と橇を引きだした。橇は、踏みつけられた雪に滑桁を軋らして、出かけて行った。
 風も眠っていた。寒気はいっそうひどかった。鼻孔に吸いこまれる凍った空気は、寒いという感覚を通り越して痛かった。
 十五分ばかりして、橇はひっかえしてきた。
 呉は、左の腕を捩《ね》じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺《こじわ》をよせてはいってきた。
「早や行ってきたのかい?」
 腰の傷の疼痛《とうつう》で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。
「火酒は残っていねえか? チッ! 俺れもやられた!」
「やっぱし、あしこのところからはいろうとしたのか?」
「いや、ずっと上へ廻ったんだ。ところがそこにも警戒兵がいた」
「どこにだって警戒兵はいるさ。番をするのはあたりまえだ」
「ふーむ、ふーむ、みごとにうたれちゃった」
 呉清輝はうたれたのが愉快だというような声を出した。
 火酒は、戸棚の隅に残っていた、呉は、それを傷口に流しかけた。酒精分が傷にしみた。すると、呉は、歯を喰いしばって、イイイッと頸を左右に慄《ふる》わした。
「何て、縁儀《えんぎ》の悪いこっちゃ、一と晩に二人も怪我をしやがって! 貴様ら、横着をして兵タイのいるいい道を選って行っとるんだろう。この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促《さいそく》の手紙が来とるんだぞ!」
 朝、深沢洋行のおやじは、ねむげな眼に眼糞をつけて支那人部屋にはいってきた。呉清輝と田川とは、傷の痛さに唸りながら、半ば、うつらうつらしつつ寝台に横たわっていた。おやじは、いきなり、ペーチカの横の水汲みの石油鑵を蹴《け》とばした。
「この荷物は急ぐんだぞ。これ、こんな催促の手紙が来とるんだぞ!」
 クヅネツォフからの暗号の手紙を田川の頭のさきで振りまわした。それには、アルファベットとアラビア数字がきれぎれに、一字一字、全部で三十字ほど折れ釘のように並んでいた。クヅネツォフは、対岸の、北の村に住んでいる富農だ。パン粉を買い占めたり、チーズを買い占めたり、そして、それを労働者に高くで売りつける。そんなことを常習のようにやっている男だ。みんなに毛ぎらいされていた。
「へへ、自分で持って行くがええや」
 おやじが去ったあとで、呉清輝は呟いた。
 田川は、これまで生きてきた日本の生活よりも、また、北満の河の北方側の生活よりも、河のかなたの生活の方がはるかにいいと心から思うことがたびたびあった。理屈ではなかった。街を歩いていると彼と同年くらいのロシアの青年たちの暗い影がちっともない顔を見てそう思うのだ。大またに、のしのしとまったく心配なげな歩きッ
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