鍬と鎌の五月
黒島傳治
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)盥《たらい》廻しに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)慶応|贔屓《びいき》で、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むほん[#「むほん」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のこ/\
−−
農民の五月祭を書けという話である。
ところが、僕は、まだ、それを見たことがない。昨年、山陰地方で行われたという、××君の手紙である。それが、どういう風だったか、僕はよく知らない。
そこで困った。
全然知らんことや、無かったことは、書くにも書きようがない。
本当らしく、空想で、でっち上げたところで、そんなものには三文の値打ちも有りゃしない。
で、以下は、労働祭のことではない。五月一日に農村であったことである。
香川県は、全国で最も弾圧のひどい土地だ。第一回の普選に大山さんが立候補した。その時、強力だった農民組合が叩きつぶされた。そのまゝとなっている。
なんにもしない、人間を、一ツの警察から、次の警察へ、次の警察から、又その次の警察へ、盥《たらい》廻しに拘留して、体重が二貫目も三貫目も減ってしまった例がいくらでもある。会合が許されない。僕の友人は、労働歌を歌っていて、ただ、それだけで一年間尾行につき纒《まと》われた。
ちょっと、郷里の家へ帰っているともう、スパイが、嗅ぎつけて、家のそばに張りこんでいる。出て歩けば尾行がついて来る。それが結婚のことで帰っていてもそうなのである。親爺の還暦の「お祝い」のことで帰っていてもそうなのである。嚊《かかあ》を貰って、嚊の親もとへ行っていると、スパイは、その門の中へまでのこ/\はいって来る。金儲けと財産だけしか頭にない嚊の親や、兄弟が、どんな疑心を僕に対して起すかは、云わずとも知れた話である。スパイは、僕等の結婚や、お祝いごとまでも妨害するのだ。僕は、若し、いつか親爺が死んだら、子として、親爺の霊を弔わなければならない。子として、親爺の葬儀をしなければならない。その時にでも、スパイは、小うるさく、僕の背後につき纒って、墓場にまでやって来るだろう。
西山も、帰るとスパイにつき纒われる仲間の一人だ。その西山が胸を悪くしてO市から帰っていた。
彼は、もと、若手の組合員だった鍋谷や、宗保や、後藤の顔を見た。それから彼等の小学校の先生だった六十三の、これも先生をやめてから、若い者よりももっと元気のある運動者となった藤井にあった。
どの顔にも元気がない。
組合が厳存していた時代の元気が、からきしなくなってしまっている。それに、西山が驚いたのは、彼等の興味が、他へ動いていることだ。
ごつ/\した、几帳面な藤井先生までが、野球フワンとなっていた。慶応|贔屓《びいき》で、試合の仲継放送があると、わざわざ隣村の時計屋の前まで、自転車できゝに出かけた。
五月一日の朝のことである。今時分、O市では、中ノ島公園のあの橋をおりて、赤い組合旗と、沢山の労働者が、どん/\集っていることだろうな、と西山は考えた。彼は、むほん[#「むほん」に傍点]気を起して、何か仕出かして見たくなった。百姓が、鍬や鎌をかついで列を作って示威運動をやったらどんなもんだろう。
彼は、宗保と後藤をさそい出した。三人で藤井先生をもさそいに行きかけた。
「おや、お揃いで、どこへ行くんだい?」
下駄屋の前を通って、四ツ角を空の方へ折れたところで、饂飩《うどん》屋にいたスパイがひょっこり立って出て来た。スパイは、饂飩屋で饂飩を食って金を払わない。お湯屋の風呂に入って、風呂銭を払わない、煙草屋で、煙草を借りて、そのまゝ借りッぱなしである。饂飩屋も、お湯屋も、煙草屋も、商売の一寸した手落ちにケチをつけられて罰金沙汰にせられるのが怖い。そこで、スパイに借られ、食われたものは、代金請求もよくせずに、黙って食われ損をしているのだ。
「山の根へ薪を積むとて行ってるんだよ。」宗保が気をきかした。
「ヘエエ。」
スパイは、疑い深かげな眼で三人を眺めた。そして、ついて来た。
──こいつは、くそッ、なにも出来なくなっちゃったな、と西山は思った。彼は、一寸なにかやると、すぐ検束騒ぎをするここの警察をよく知っていた。
三人は、藤井先生の家へ行くことが出来なくなった。宗保は、薪を積みに行くという真実味をよそうため、途中で猫車をかりて、引っぱって山へ行く坂の道を登りだした。
「今日は、どうするにも駄目だよ。」彼の眼は二人に語った。「俺れんちの薪を積む手伝いでもして呉れろよ。」
スパイは、三人が集ったのを、何かたくらんでいると睨んでいた。この男は、藤井先生がY村で教えていた頃の生徒
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング