穴
黒島傳治
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)偽《に》せ札《さつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)横※[#「やまいだれ+坐」、第3水準1−88−47]《よこね》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)知らず/\
−−
一
彼の出した五円札が贋造紙幣だった。野戦郵便局でそのことが発見された。
ウスリイ鉄道沿線P―の村に於ける出来事である。
拳銃の這入っている革のサックを肩からはすかいに掛けて憲兵が、大地を踏みならしながら病院へやって来た。その顔は緊張して横柄で、大きな長靴は、足のさきにある何物をも踏みにじって行く権利があるものゝようだった。彼は、――彼とは栗島という男のことだ――、特色のない、一兵卒だった。偽《に》せ札《さつ》を作り出せるような気の利いた、男ではなかった。自分でも偽せ札を拵《こしら》えた覚えはなかった。そういうあやしい者から五円札を受取った記憶もなかった。けれども、物をはねとばさぬばかりのひどい見幕でやって来る憲兵を見ると、自分が罪人になったような動揺を感ぜずにはいられなかった。
憲兵伍長は、腹立てゝいるようなむずかしい顔で、彼の姓名を呼んだ。彼は、心でそのいかめしさに反撥しながら、知らず/\素直におど/\した返事をした。
「そのまゝこっちへ来い。」
下顎骨《かがくこつ》の長い、獰猛《どうもう》に見える伍長が突っ立ったまゝ云った。
彼は、何故、そっちへ行かねばならないか、訊ねかえそうとした。しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真をかくすことも忘れて、呼ばれるままに事務室へ這入って行った。
陸軍病院で――彼は、そこに勤務していた――毎月一円ずつ強制的に貯金をさせられている。院長の軍医正が、兵卒に貯金をすることを命じたのだ。
俸給が、その時、戦時加俸がついてなんでも、一カ月五円六十銭だった。兵卒はそれだけの金で一カ月の身ざんまいをして行かねばならない。その上、なお一円だけ貯金に、金をとられるのだ。個人的な権限に属することでも、命じられた以上は、他を曲げて実行しなければならないのが兵卒だった。それが兵卒のつとめだ。彼は俸給に受取った五円札をその貯金を出した。そして、ツリに、一円札を四枚、金をまとめて野戦郵便局へ持って行く小使から受取った。その五円札が贋造だったことを局員が発見したのである。
それは極めて精巧に、細心に印刷せられたものであった。印刷局で働いて、拵え方を知っている者の仕業のようだ。一見すると使い古され、しわくちゃになっていた。しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺《しわ》も一時に、故意につけられたものだ。
郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやってきて、札を透かしたり指でパチ/\はじいたりした。珍しそうにそれを眺め入った。
「うまくやる奴もあるもんだね。よくこんなに細かいところまで似せられたもんだ。」
「すかしが一寸、はっきりしていないだろう。」貯金掛の字のうまい局員が云った。
「さあ。」
「それは紙の出どころが違うんだ。札の紙は、王子製紙でこしらえるんだが、これはどうも、その出が違うようだ。」
「一寸見ると、殆んど違わないね。」電信隊の兵タイは、蟇口《がまぐち》から自分の札を出して、比較してみた。「違わないね。……実際、Five なんか一分も違わず刷れとるじゃないか。」
「どれ/\。」
局へ内地の新聞を読みに来ている、二三人の居留民が、好奇心に眼を光らせて受付の方へやって来た。
三十歳をすぎている小使は、過去に暗い経歴を持っている、そのために内地にはいられなくて、前科者の集る西伯利亜《シベリア》へやって来たような男だった。彼の表情にも、ものごしにも、暗い、何か純粋でないものが自《おのずか》ら現れていた。彼は、それを自覚していた。こういう場合、嫌疑が、すぐ自分にかゝって来ることを彼は即座に、ピリッと感じた。
「おかしなことになったぞ。」彼は云った。「この札は、栗島という一等看護卒が出したやつなんだ。俺れゃちゃんと覚えとる。五円札を出したんは、あいつだけなんだから、あいつがきっと何かやったんだな。」
彼は、自然さをよそおいつゝ人の耳によく刻みこまれるように、わざと大きな声を出した。
「栗島が出した札かい?」局員はきゝかえした。その声に疑問のひゞきがあった。
「あゝ、そうだ。」
「たしかだね?」
「うむ、そうだ。そうに違いない。」
眼鏡を掛けた、眼つきの悪い局長が、奥の部屋から出て来た。局長は疑ぐるように、うわ眼を使って、小使をじろりと見た。
「誰れが出した札だって?」
局長は、小使から局員の方へそのうわ眼を移しながら云った。
小使は、局長の光っている眼つきが、なお自分に嫌疑をかけているのを見た。彼は、反抗的な、むずかしい気持になった。彼は、局長の言葉が耳に入らなかった振りをして、そこに集っている者達に栗島という看護卒が平生からはっきりしない点があることを高い声で話した。間もなく通りから、騒ぎを聞きつけて人々がどや/\這入って来た。
郵便局の騒ぎはすぐ病院へ伝わった。
自分の出した札が偽ものだったと見破られた時のこういう話をきくと、栗島は、なんだか自分で、知らぬまに、贋造紙幣を造っていたような、変な気持に襲われた。怖くて恐ろしい気がした。人間は、罪を犯そうとする意志がなくても、知らぬ間に、自分の意識外に於て、罪を犯していることがある。彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たしかにそうだった。子供が自分の衝動の赴くまゝに、やりたい要求からやったことが、先生から見て悪いことがたび/\ある。子供はそこで罰せられねばならない。しかも、それは、子供ばかりにあるのではなかった。誰れにでもあることだ。人間には、どんなところに罪が彼を待ち受けているか分らない。弱点を持っている者に、罪をなすりつけようと念《こゝろ》がけている者があるのだ。彼は、それを思って恐ろしくなった。
二
「財布を出して見ろ。」
「はい。」
「ほかに金は置いてないか。」
「ありません。」
「この札は、君が出したやつだろう。」
憲兵伍長は、ポケットから、大事そうに、偽札を取り出して示した。
「さあ、どうだったか覚えません。――あるいは出したやつかもしれません。」
「どっから受取った?」
「…………」
栗島は、憲兵上等兵の監視つきで、事務室へ閉めこまれ、二時間ほど、ボンヤリ椅子に腰かけていた。机の上には、街の女の写真が大きな眼を開けて笑っていた。上等兵は、その写真を手に取って、彼の顔を見ながら、にや/\笑った。女郎の写真を彼が大事がっているのを冷笑しているのだが、上等兵も街へ遊びに出て、実物の女の顔を知っていることを思うと、彼はいゝ気がしなかった。女を好きになるということは、悪いことでも、恥ずべきことでもない。兵卒で、取調べを受ける場合に立つと、それが如何にも軽蔑さるべき、けがらわしいことのように取扱われた。不品行を誇張された。三等症のように見下げられた。ポケットから二三枚の二ツに折った葉書と共に、写真を引っぱり出した時、伍長は、
「この写真を何と云って呉れたい?」とへへら笑うように云った。
「何も云いやしません。」
「こいつにでも(と写真をさも軽蔑した調子で机の上に放り出して)なか/\金を入れとるだろう。……偽せ札でもこしらえんけりゃ追っつかんや。」
如何にも、女に金を貢ぐために、偽せ札をこしらえていたと断定せぬばかりの口吻だ。
彼は弁解がましいことを云うのがいやだった。分る時が来れば分るんだと思いながら、黙っていた。しかし、辛棒するのは、我慢がならなかった。憲兵が三等症にかゝって、病院へ内所で治療を受けに来ることは、珍らしくなかった。そんな時、彼等は、頭を下げ、笑顔を作って、看護卒の機嫌を取るようなことを云った。その態度は、掌《てのひら》を引っくりかえしたように、今、全然見られなかった。上等兵の表情には、これまで、病院で世話になったことのないあかの他人であるような意地悪く冷酷なところがあった。
こういう態度の豹変は憲兵や警官にはあり勝ちなことだ。憲兵や警官のみならず、人間にはそういう頼りにならぬ一面が得てありがちなことだ。それ位いなことは、彼にも分らないことはなかった。それでも、何故か、彼は、腹の虫がおさまらなかった。憲兵が、横※[#「やまいだれ+坐」、第3水準1−88−47]《よこね》で跛《びっこ》を引きながら病院へやって来たことを云って面罵してやりたかった。だが、そうすれば、今、却って、自分が損をするばかりだ。彼はそう考えた。強いて押し黙っていた。
一時間ばかり椅子でボンヤリしているうちに、伍長と、も一人の上等兵とは、兵舎で私の私物箱から背嚢、寝台、藁布団などを悉く引っくりかえして、くまなく調べていた。そればかりでなく、ほかの看護卒の、私物箱や、財布をも寝台の上に出させ、中に這入っている紙幣を偽物[#「偽物」は底本では「物偽」]かどうか、透かしてたしかめた。
憲兵にとって、一枚の贋造紙幣が発見されたということは、なんにも自分の利害に関する問題ではなかった。発覚されない贋造紙幣ならば、百枚流通していようが、千枚流通していようが、それは、やかましく、詮議立てする必要のないことだった。しかし一度発覚され、知れ渡《わた》った限りは、役目として、それを取調べなければならなかった。犯人をせんさくし出さなければ、役目がつとまらなかった。役目がつとまらないということは、自分の進級に関係し、頸に関係する重大なこと柄だった。
兵卒は、初年兵の時、財布に持っている金額と、金銭出納簿(入営するとそれを記入することを云いつけられる。)の帳尻とが合っているかどうか、寝台の前に立たせられて、班の上等兵から調べられた経験を持っていた。金額と帳尻とが合っていないと、胸ぐらを掴まれ、ゆすぶられ、油を搾られた。誰れかゞ金を紛失した場合、殊更、帳尻を合わしていない者に嫌疑が掛って来た。帳尻の合っていない者が盗んだとは、断定することは出来ない。それは弱点ではあった。が、盗んだ者だという理由にはならなかった。けれども、実際には、帳尻を合わしていない、投げやりな、そういう者に限って人のいゝ男が、ひどい馬鹿を見るのだ。
憲兵が取調べる際にも、やはり、その弱点を掴むことに伍長と上等兵の眼は向けられた。彼等は、犯人らしい、多くの弱点を持っている者を挙げれば、それで役目がつとまるのだ。
事務室から出ることを許されて、兵舎へ行くと、同年兵達は、口々にぶつ/\こぼしていた。
「栗島。お前本当に偽札をこしらえたんか?」
松本がきいた。
「冗談を云っちゃ困るよ。」彼は笑った。
「憲兵がこしらえたらしいと云いよったぞ。」
「おどかすのは、えゝかげんにしてくれ。」
彼の寝台の上には、手帳や、本や、絵葉書など、私物箱から放り出したまゝ散らかっていた。小使が局へ持って行った貯金通帳は、一円という預入金額を記入せずに拡げられてあった。彼は、無断で私物箱を調べられるというような屈辱には馴れていた。が、聯隊の経理室から出た俸給以外に紙幣が兵卒の手に這入る道がないことが明瞭であるにも拘《かかわ》らず、弱点を持っている自分の上に、長くかゝずらっている憲兵の卑屈さを見下げてやりたい感情を経験せずにはいられなかった。主計には頭が上らないから、兵卒のところでえばっているのだ。そんな風に考えた。
「オイ、栗島。」軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を
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