った。ころげこんだのかもしれなかった。老人は、切断された蜥蜴《とかげ》の尻尾のように穴の中ではねまわった。彼は大きい、汚れた手で土を無茶くちゃに引き掻いた。そして、穴の外へ盲目的に這い上ろうとした。「俺は死にたくない!」彼は全身でそう云った。
 将校は血のついた軍刀をさげたまゝ、再び軍刀をあびせかけるその方法がないものゝように、ぼんやり老人を見た。
 兵卒は、思わず、恐怖から身震いしながら二三歩うしろへ退いた。伍長が這い上って来る老人を、靴で穴の中へ蹴落した。
「俺れゃ生きていたい!」
 老人は純粋な憐れみを求めた。
「くたばっちまえ!」
 通訳の口から露西亜語がもれた。
「俺れゃ生きていたい!」
 老人は蹴落されると、蜥蜴の尾のように穴の中ではねまわった。
 それから、再び盲目的に這い上ろうとした。また、固い靴で、蹴落された。彼は、必死に力いっぱいに、狭い穴の中でのたうちまわった。
 彼は、右肩を一尺ばかり斬られていた。栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって裾にしたゝり落ちるのを見た。薄藍色の着物が血で、どす黒くなった。血は、いつまでたっても止まらなかった。
 血は、老人がはねまわる、原動力だ。その原動力が、刻々に、体外へ流出した。
 彼は、抜き捨てられた菜ッ葉のように、凋《しお》れ、へすばってしまいだした。
 彼は最後の力を搾った。
 彼はまた這い上ろうとした。
 将校は、大刀のあびせようがなかった。将校は老人の手や顔に包丁で切ったような小さい傷をつけるのがいやになった。大刀の斬れあじをためすためにやってみたのだ。だが、そいつがあまりに斬れなかった。
「えゝい、仕様がない。このまゝ埋めてしまえ! 面倒だ」
 将校はテレかくしに苦笑した。
 シャベルを持っている兵卒は逡巡した。まだ老人は生きて、はねまわっているのだ。
「やれツ! かまわぬ。埋めっちまえ!」
「ほんとにいゝんですか? ××殿!」
 兵卒は、手が慄えて、シャベルを動かすことが出来なかった。彼等は、物訊ねたげに、傍にいる者の眼を見た。
 将校は、叱咤《しった》した。
 穴の底で半殺しにされた蛇のように手足をばた/\動かしている老人の上へ、土がなだれ落ちて行きだした。
「たすけ……」老人は、あがき唸った。
 土は、老人の憐憫を求める叫声には無関心になだれ落ちた。
 兵卒は、老人の唸きが聞えるとぞっとした。彼等は、土をかきこんで、それを遮断しようがために、無茶苦茶にシャベルを動かした。
 土は、穴を埋め、二尺も、三尺も厚く蔽いかぶせられ、ついに小山をつくった。……

      六

 これは、ほんの些細な、一小事件にすぎなかった。兵卒達は、パルチザンの出没や、鉄橋の破壊や、駐屯部隊の移動など、次から次へその注意を奪われて、老人のことは、間もなく忘れてしまった。
 丘の病院からは、谷間の白樺と、小山になった穴のあとが眺められた。小川が静かに流れていた。栗島は、時々、院庭へ出て、白樺のあたりを見おろした。
 彼は、あの土をもり上げた底から、なお、叫び唸る声がひゞいて来るような気がした。狭い穴の中で、必死に、力いっぱいにのたうちまわっている、老人が、まだ、目に見えるようだった。彼は慄然とした。
 日が経った。次の俸給日が来た。兵卒は聯隊の経理室から出張した計手から俸給を受取った。彼等は、あの老人を絶滅して以来、もう、偽せ札を造り出す者がなくなってしまったと思っていた。殊に、絶滅の仕方が惨酷であったゞけ、その効果が多いような感じがした。
 彼等は、自分の姓名が書かれてある下へ印を捺して、五円と、いくらか半ぱの金を受取った。その金で街へ遊びに行ける。彼等は考えた。
「おや、こいつはまた偽札じゃないか。」不意に松本がびっくりして、割れるように叫んだ。
「何だ、何だ!」
「こいつはまた偽札だ。――本当に偽札だ!」
 その声は街へ遊びに行くのがおじゃんになったのを悲しむように絶望的だった。
「どれ?……どれ」
 それはたしかに、偽札だった。やはり、至極巧妙に印刷され、Five など、全く本ものと違わなかった。ところが、よく見るとSも、Hも、Yも、栗島も、同様に偽札を掴まされていた。軍医正もそうだった。

 ところが、更に偽札は病院ばかりでなく、聯隊の者も、憲兵も、ロシア人も、掴まされていた。そして今は、偽札が西伯利亜の曠野を際涯もなく流れ拡まって行っていた。…………
[#地から1字上げ](一九二八年五月)



底本:「黒島傳治全集 第一巻」筑摩書房
   1970(昭和45)年4月30日第1刷発行
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2004年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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