ないんか?」
「いつさ。」
「最近だよ。」
「なぜ、そんなことをきくんだい?」
 半里ばかり向うの沼のほとりに、鮮人部落がある。そこに、色の白い面長の若い娘がいる。このあたりの鮮人には珍らしい垢ぬけのした女だ。それを知らないか、松本はそうきいた。
 と、彼は、それと同じことを、鮮人部落の地理や、家の格好や、その内部の構造や、美しい娘のことなどを、執拗に憲兵隊で曹長に訊ねられたことを思い出した。
「女というものは恐ろしいもんだよ。そいつはいくらでも金を吸い取るからな。」
 松本は、また、誰れを指すともなく、しかし、それは、街のあの眼の大きい女であることをほのめかしながら、云った。
 ほかの同年兵達が、よそ/\しい疑うような眼をして、兵舎へ這入って来た時、彼は始めて自分があの鮮人から贋造紙幣を受取っていやしなかったか、そのことを試されているのに、気づいた。むやみに腹立たしかった。

      五

 谷間の白樺のかげに、穴が掘られてあった。傍に十人ばかりの兵卒が立っていた。彼等は今、手にしているシャベルで穴を掘ったばかりだった。一人の将校が軍刀の柄に手をかけて、白樺の下をぐる/\歩いていた。口元の引きしまった、眼が怒っている若い男だ。兵卒達の顔には何かを期待する色が現れていた。将校は、穴や白樺や、兵卒の幾分輝かしい顔色を意識しつゝ、なお、それ等から離れて、ほかの形而上的な考えを追おうとしている様子が見えた。
 小川を渡って、乾草の堆積のかげから、三人の憲兵に追い立てられて、老人がぼつ/\やって来た。頭を垂れ、沈んで、元気がなかった。それは、憲兵隊の営倉に入れられていた鮮人だった。
「や、来た、来た。」
 丘の病院から、看護卒が四五人、営内靴で馳せ下って来た。
 老人は、脚が、かなわなくなったものゝのように歩みが遅かった。左右から憲兵が腕をとって引きたてゝていた。老人の表情は、次第に黒くなった。眼尻の下った、平ぺったい顔、陋屋と阿片の臭い。彼は、今にも凋んだ唇を曲げて、黄色い歯糞のついた歯を露出して泣きだしそうだった。
 左右の腕は、憲兵によって引きたてられてさきに行っている。が、胴体と脚は、斜に後方に残っていた。一人が剣鞘で尻を殴った。しかし老人は、感覚を失ったものゝのように動じなかった。彼は、本能的に白樺の下へ行くのを忌避していた。
「あ、これだ、これだ!」
 丘から下って来た看護卒は、老人が歩いて行く方へやって来た。そして、一人が云った。彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍しそうに、水飴のように大地にへばりつこうとする老人を眺めた。
「伍長殿。」剣鞘で老人の尻を叩いている男に、さきの一人が思い切った調子で云った。それは栗島だった。「どっか僕が偽せ札をこしらえた証拠が見つかりましたか?」
「まあ待て!」伍長は栗島を振りかえった。
「このヨボが僕に札を渡したって云っていましたか。」
 彼は、皮肉に意地悪く云った。
「犯人はこいつにきまったんだ。何も云うこたないじゃないか。」
 老人の左腕を引っぱっている上等兵が、うしろへ向いて云った。
「なあに、こんな百姓爺さんが偽札なんぞようこしらえるもんか! 何かの間違いだ。」
 老人は、白樺の下までつれて行かれると、穴の方に向いて立たせられた。あとから来た通訳が朝鮮語で何か云った。心配することはない。じいっと向うを見て、真直に立っていろ、と云ったのであった。しかし老人は、恐怖と、それが嘘であることを感じていた。彼は鼻も口も一しょになってしまうような泣き面をした。「俺は殺され度くない。いつ、そんな殺されるような悪いことをしたんだ!」と眼は訴えていた。「俺は生きられるだけ生きたいんだ! 朝鮮人だって、生きる権利は持っている筈だ!」そう云っているように見えた。
 兵卒は、水を打ったようにシンとなって、老人の両側に立った。彼等の眼は悉く将校の軍刀の柄に向けられた。
 軍刀が引きぬかれ、老人の背後に高く振りかざされた。形而上的なものを追おうとしていた眼と、強そうな両手は、注意力を老人の背後の一点に集中した。
 老人はびく/\動いた。
 氷のような悪寒が、電流のように速かに、兵卒達の全身を走った。彼等は、ヒヤッとした。栗島は、いつまでも太股がブル/\慄えるのを止めることが出来なかった。軍刀は打ちおろされたのであった。
 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるようだった。
 栗島は、次の瞬間、老人が穴の中へとびこんでいるのを見た。それはとびこんだのではなかったかもしれなか
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
黒島 伝治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング