来て居るからそれで知っとるんです。」
「そう弁解しなくたって君、何も悪いとは云ってやしないよ。」
曹長は笑い出した。
「そうですか。」
慌てゝはいけないと思った。
曹長は、それから、彼の兄弟のことや、内地へ帰ってからどういう仕事をしようと思っているか、P村ではどういう知人があるか、自分は普通文官試験を受けようと思っているとか、一時間ばかりとりとめもない話をした。曹長は現役志願をして入営した。曹長にしては、年の若い男だった。話し振りから、低級な立身出世を夢みていることがすぐ分った。彼は、何だ、こんな男か、と思った。
二人が話している傍へ、通訳が、顔の平べったい、眉尻の下っている一人の鮮人をつれて這入って来た。阿片の臭いが鼻にプンと来た。鰌髭《どじょうひげ》をはやし、不潔な陋屋の臭いが肉体にしみこんでいる。垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして、坐ろうとしなかった。
「坐れ、なんでもないんだ。」
老人は、圧えつけられた、苦るしげな声で何か云った。
通訳がさきに、彼の側に坐った。そして、も一度、前と同様に手を動かした。
老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る/\静かに坐った。
朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔で喋《しゃべ》っていた。黄色い、歯糞のついた歯が、凋《しお》れた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状《ラッパじょう》に拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。
「一寸居ってくれ給え。」
曹長は、刑法学者では誰れが権威があるとか、そういう文官試験に関係した話を途中でよして、便所へ行くものゝのように扉の外へ出た。
彼は、老人の息がかゝらないように、出来るだけ腰掛の端の方へ坐り直した。彼は、癇高い語をつゞけている通訳と老人の唇の動き方を見た。老人は苦るしげに、引きつっているような舌を動かしている。やがて通訳も外へ出てしまった。年取った鮮人と、私とが二人きりで、部屋の中に残された。二人はお互いに、相手の顔や身体を眺めあった。老人は、鮮人に共通した意気の揚らない顔と、表情とを持っていた。彼は鮮人と云えば、皆同じようなプロフィルと表情を持っているとしか見えない位い、滅多に接近したことがなかった。彼等の顔には等しく、忍従した上に忍従して屈辱を受けつゞけた人間の沈鬱さが表現されているばかりだ。老人には、泣き出しそうな、哀しげな表情があった。
彼は、朝鮮語は、「オブソ」という言葉だけしか知らなかった。それでは話が出来なかった。
「どこに住んでいるんだ。」
露西亜語できいてみた。
黄色い歯を見せて老人は何か云った。語調が哀れで悄然としていた。唇が動くにつれて、鰌髭が上ったり下ったりした。返事は露西亜語で云われたが、彼には意味がとれなかった。
「どうして、こんなところへやって来たんだ?」
彼は、また露西亜語できいた。老人は不可解げに頸をひねって、哀しげな、また疑うような眼で、いつまでもおずおず彼を見ていた。
彼も、じっと老人を見た。
四
何故、憲兵隊へつれて来られたか、その理由が分らずに、彼は、湿っぽい、地下室の廊下を通って帰るように云われた。彼は自分が馬鹿にせられたような気がして腹立たしかった。廊下の一つの扉は、彼が外へ出かけに開いていた。のぞくと、そこは営倉だった。
「偽札をこしらえた者が掴まったそうじゃないか、見てきたかい?」
兵舎へ帰ると、一人で将棋盤を持出して駒を動かしていた松本が頭を上げてきいた。
「いや。」
「朝鮮人だそうだよ。三枚ほど刷った五円札を本に挟んで置いてあったそうだ。」
「誰れからきいた?」
「今、尿道注射に来た憲兵が云っとった。密偵が見つけ出して来たんだ。」
密偵は、鮮人だった。日本語と露西亜語がなか/\達者な、月三十円で憲兵隊に使われている男だった。隊長は犯人を検挙するために、褒美を十円やることを云い渡してあった。密偵は十円に釣られて、犬のように犯人を嗅ぎまわった。そして、十円を貰って嬉しがっている。憲兵は、松本にそういう話を笑いながらしたそうだ。
「じや、あの朝鮮人かもしれん。今さっきまで憲兵隊で同じ机に向って坐っとったんだ。」
彼は、ひょっと連想した。
「どんな奴だ?」
「不潔な哀れげな爺さんだ。」
「君は、その爺さんと知り合いかって訊ねられただろう?」松本は意味ありげにきいた。
「いや。」
「露西亜語を教わりに行く振りをして、朝鮮人のところへ君は、行っとったんじゃ
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